第2313日目 〈ペトロの手紙・一第2章:〈生きた石、聖なる国民〉、〈神の僕として生きよ〉他with群衆のなかのロビンソン・クルーソー、斯く独白せり。〉 [ペトロの手紙・一]

 ペトロの手紙・一第2章です。

 ペト一2:1-10〈生きた石、聖なる国民〉
 慕い求めた純度100%の霊の乳を飲むことで、あなた方は乳飲み子から成長し、救われるようになりました。
 また、その乳によってあなた方は主が恵み深い存在であることを味わった。皆、この主の許へ来なさい。
 「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」(ペト一2:4)
 あなた方自身も生きた石となり、霊的な家が造り上げられる際の部材となるようになさい。「イザヤ書」に於いて神は、選ばれた尊い要石をシオンに置き、それを信じる者はけっして失望することがない、といいました。
 その要石は信じる人には代わるものなき唯一無二のものですが、信じない者にはまったく以て取るに足らない無価値なものなのです──詩篇ではその要石は家を建てる者が捨てた石、と表現されています。が、それは信じる者にとって「隅の親石」となったのでした。一方で、神が選んだ尊い要石は、それに価値もなにも見出さぬ者には「つまずきの石/妨げの石」(イザ8:14)となったのです。御言葉を信じない者がつまずくのは以前から定められていたことなのでした。
 「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」(ペト一2:9)
 あなた方はかつては神の民ではなかった。憐れみを受けてもいなかった。が、いまやあなた方は神の民であり、憐れみを受けています。

 ペト一2:11-17〈神の僕として生きよ〉
 魂に戦いを挑むような肉の欲を避けなさい。
 異教徒の社会にあっても立派に生きなさい。為すべきを為し、敬うべきを敬い、信ずべきを信じ、愛すべきを愛しなさい。異邦異教の民のなかに暮らしていてもキリスト者としてきちんと生活していれば、「彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」(ペト一2:12)
 主のためにも人間が定めた制度には従いなさい。皇帝であれ総督であれ、上に立つ者には服従しなさい。善を行い、愚者の無知な発言を封じることは、神の御心にかなうことです。自由人として生活するのは構いませんが、その自由を悪事を隠す手段としてはなりません。あなた方は神の僕として行動し、生きなくてはならない。
 「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」(ペト一2:17)

 ペト一2:18-25〈召し使いたちへの勧め〉
 召し使いの身分にある者たちよ、善良で寛大な主人ばかりでなく、無慈悲で猜疑的な主人に対しても心から敬って仕えなさい。その結果、不当な苦しみを受けることになったとしても、それが神の御旨であると思うて耐え忍ぶなら、御心にかなった生き方をしているのです。
 「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」(ペト一2:21)
 キリストは罪を犯したことも偽りを口にすることもありませんでした。罵りに罵りを以て返すこともなく、苦しめられても相手を脅かすことはありませんでした。そうして正しい裁きのできる方へ己をゆだね、十字架に掛かり、われらの罪を背負って死にました。これは、われらが罪に対して死に、義によって生きるためです。あなた方はキリストが受けた傷によって癒やされているのであります
 「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(ペト一2:25)

 本章の要となるのは中間、〈神の僕として生きよ〉の部分だと思います。見渡せばどこもかしこも異邦人、異教徒だらけ。
 そんなコミュニティのなかで生活するのを余儀なくされたとしても、キリスト者として恥ずかしくない、非の打ち所のない生き方をしていれば、初めのうちこそ排斥しようと様々手段を講じてきた異教徒もやがてはかれらを認め、それどころかキリスト再臨の日には神を崇めるようになっているだろう、というのであります。これこそが理想的感化、理想的布教というべきことなのかもしれません。
 圧倒的暴力による改宗は憎悪と更なる暴力しか生まない。四面楚歌のなか、絶えることなき悪意と中傷と乱暴に遭うても凜として立ち、為すべきを為し、敬うべきを敬い、信ずべきを信じ、愛すべきを愛しておれば、異教徒と雖も見る人はそれを見ているのだから、そのコミュニティの世論は自ずと容認の方向へ傾いてゆくことだろう。
 ……これがわたくしの、それこそ現実を軽視した、蒙昧なる理想論に過ぎぬことは重々承知しております。そう、現実はそんなに単純に割り切れぬものではない。コミュニティは寛容の姿勢を打ち出しながらも、その内実は常に排斥へと舵を切ることの方が多い。「和を以て貴しと為す」とは正反対の態度へ流れるのです。今日でいえば、世界中で行われるイスラム教徒や難民に対する、わが国に於いては韓国人へのヘイトスピーチなど、例を挙げれば枚挙に暇がありません。もっと小規模のものは、昔からこの国では村八分とか仲間外れとかむごたらしい言葉を以て例を挙げられます。これに負けた者は自殺するのです。
 それが現実社会に横行して当たり前となっているのが常である、と実感しているからこそ、わたくしは本章で語られる生き方に共鳴したり、憧れたりするのでしょう。引用もしたペト一2:17はそのためのモットーとして心に刻んでおくべきかもしれません。

 本日の旧約聖書はペト一2:6とイザ28:26(但し70人訳ギリシア語聖書)、ペト一2:7と詩118:2、ペト一2:8とイザ8:14、ペト一2:10とホセ2:23及び25、ペト一2:22とイザ53:9。



 社会人である以上いろいろとあるわけですよ。今日(昨日ですか)も、また。
 血の涙を流したくても流せない、群衆のなかのロビンソン・クルーソーとは誰か。
 退場のタイミングを誤ることなかれ。そのために然るべき準備を。
 わたくしに「生前の誹り、死後の誉れ」なんてあるのかな。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。