第2315日目 〈ペトロの手紙・一第4章:〈神の恵みの善い管理者〉&〈キリスト者として苦しみを受ける〉with米澤穂信『さよなら妖精』読了。〉 [ペトロの手紙・一]

 ペトロの手紙・一第4章です。

 ペト一4:1-11〈神の恵みの善い管理者〉
 あなた方のうちで誰であれ、肉に苦しみを受けた人は即ち罪との関わりを断った人に他なりません。その人は最早神の良心に従って肉に於ける残りの生涯を生きるようになるのです。
 かつてあなた方はあらゆる肉の欲望に忠実で、偶像崇拝にも耽っていました。それらを一緒になって行っていた連衆は、或る日或る時を境にそれらのことから遠ざかったあなた方のことを訝り、嫉みました。しかし、それで良いのです。練習は遅かれ早かれ、生者と死者を裁く方へ弁明せねばならないのですから。
 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、人間の物差しで計れば肉ゆえに裁かれたようでも、その実、神との関係に於いては霊として生きるためでなのでした。
 皆さん、万物の終わりが迫っています。だから思慮深く振る舞い、身を慎んで、よく祈りなさい。「なによりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」(ペト一4:8)
 あなた方はそれぞれ賜物を授かっている。神の様々な恵みの善い管理者として、その賜物を立派に活用して互いに仕えなさい。語る者は神の言葉を語るに相応しく語り、奉仕する人は神より与えられた力に応じて奉仕しなさい。すべてはキリストを通して神が栄光を受けるためなのです。
 世々限りなく栄光と力が神にありますように。アーメン。

 ペト一4:12-19〈キリスト者として苦しみを受ける〉
 愛する人たちよ、わが身に突然降りかかった災難というか試練に、驚いたり慌てたり怪しんではならない。
 「あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。」(ペト一4:15)
 キリストの名のために非難されるならば幸いです。栄光の霊(神の霊)があなた方の上に留まっているでのすから。そうして、キリスト者として苦しめられることをけっして恥じてはなりません。むしろキリスト者の名で呼ばれることを誇り、斯く呼ばれることで神を崇めなさい。
 いまこそ神の家から裁きが始まります。ところで、まず(キリスト者である)われらから裁かれるのだとしたら、神の福音に従わぬ者らの行く末はいったいどんなものでしょうか。正しい人がようやっと救われるとすれば、不信心な者、罪深い者、欲深い者は、果たしてどうなるのでしょう?
 われらはかれらを反面教師としなくてはなりません。「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」(ペト一4:19)

 キリスト者としてあるべき行動を取り、為すべきことを果たしておればよい。そのためにも罪との関わりを断ち、神の恵みの善き管理者として生き、キリストゆえの迫害に誇りを持って耐えよ。──本章を煎じ詰めればそんなメッセージが浮かびあがりましょうか。
 本章まで読み進めてきて今日ふと思うたのは、、「ペトロの手紙 一」は窮極的な意味で共観福音書のエッセンスではないか、ということ。ノートを綴りながら折に触れ福音書のなかのイエスを巡る挿話、イエスの教えや台詞が思い起こされたのは、それゆえかもしれません。このことについてはもう少し腰を据えて考えてみたく存じます。

 本日の旧約聖書はペト一4:18と箴11:31(但し70人訳ギリシア語聖書)。今回は新共同訳聖書「箴言」の該当箇所を参考として引いておきます、──
 「神に従う人がこの地上で報われるというなら/神に逆らう者、罪を犯す者が/報いを受けるのは当然だ。」



 米澤穂信の出世作『さよなら妖精』(創元推理文庫)を休日の昼に読了。これまで読んだ作品すべてにも共通していえることだけれど、やはり今回も安易なエンディングは用意されていなかったね。好い加減馴れろよ、という声には「いやはやなんとも」と頭を掻くより他なく。
 あなたの故郷へ自分も行きたい、だから一緒に連れて行ってほしい。主人公、守屋路行はクライマックスに於いて異邦からの友、マーヤに斯く願い出る。が、観光に来るにはまだ早過ぎる、と彼女はわずかな微笑を交えて一蹴した。故郷ユーゴスラヴィアが折しも内戦に突入し、事態が長期化・泥沼化することを予見していたためだ。守屋は自分が見聞したことのない世界にマーヤを通じて触れ、これまで自発的に行動を起こしてなにかに没頭したことのない自分でもなにかアクションを起こせるのではないか、とかすかな望みを抱いた。しかし観光目的で来るには時期が悪い、と諭されるのだ。マーヤは守屋の真意に気附いていたにもかかわらず(P298)。
 そうして、マーヤは連絡先を知らせることなく去った。守屋と、マーヤの日本での寄宿先を提供した白川いずるは1年後の夏、彼女が帰国した先がユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国/ユーゴスラヴィア連邦共和国を構成する6つの共和国と2つの自治州のうちのどこであったか、当時の日記や報道等を資料に推理する。一応の結論を出したその日の夜、守屋はマーヤのその後を知らされる。
 ──1990年代前半のユーゴ内戦を報道で知るならば、それは辿り着いて然るべきエンディングなのだろうけれど……。「民族自決」とか「民族独立」などいろいろな言葉でこの内戦の大義が当時は語られた覚えがある。しかしその大義の下で行われるのはとどのつまり、無差別の大量虐殺でしかない。ジェノサイドの前に生きとし生けるものの命はあっけなく、儚く、ちっぽけで顧みるに足らざるものなのか。なにやら脳天をハンマーで3発ばかり、ガツン、と叩かれた思いだ。
 読了翌日から本作の10年後のネパールを舞台に、『さよなら妖精』の登場人物の1人、大刀洗万智が活躍する<ベルーフ>シリーズの第1作『王とサーカス』(東京創元社)を読み始めている。◆

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