第2669日目 〈ダンセイニ卿『戦争の物語』を再読しよう。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日のブログにて、村上春樹の本をダンボール箱に詰めて代わりに日本古典文学のテキストと研究書を棚に並べた、と書いた。本日の原稿はその副産物というべきもの。その過程で別の書架に並ぶ本を眺めることになり(積みあげたダンボール箱でふさがれた、書架なのだ)、その一角にまたずいぶんと懐かしい思い出をよみがえらせる同人誌を10数冊、発見した。
 2つのサークルの同人誌なのですが、1つは創作、1つは評論。も少し詳しく申せば前者のジャンルはハイ・ファンタジーで、滅亡した国家の姫君が国家再興を目的に諸国を放浪する、未完結の『ギネルト・ロウ』(S&S)。後者はアイルランドの幻想文学者(の面が専ら有名な)ロード・ダンセイニの未訳作品の翻訳や研究に奮闘して、現在も刊行が続いているらしい『ペガーナ・ロスト』(西方猫耳教会)である。
 コミケに通い詰めて書架二杯分を埋め尽くした同人誌の殆どは、火事があった際に処分した。断腸の思いで処分した、もう二度と手にすること能わざるそれらをわたくしはいまでも夢に見る。煤や煙をかぶった同人誌の群れから「これだけはどうしても……」と救出、その後もコミケや創作畑に通ってコレクションの充実に努めたサークルの本は、本当にわずかだ。
 先に挙げた2つのサークルはその「本当にわずか」に属すものだが就中後者、『ペガーナ・ロスト』はわたくしが最後にコミケへ参加した年に購入した、唯一の事前より購入を計画していた同人誌なのだ。それとておそらく現在から顧みれば活動の初期の刊行物であろうが、この時分に購入した西方猫耳教会の本のなかでは、『戦争の物語』(稲垣博・訳 2004年06月)が好きだ。
 本書はダンセイニが「第一次世界大戦をスケッチ風に描いた散文集」(P124)で、掌編全34編を翻訳、収めている。陰翳のくっきりした、惻惻たる日本語で、このような稀代の戦争小説が読めた幸せを当時のわたくしはこんな風に、奥付に書きつけている。曰く、──
 「やりきれない。著者の傷の深さもさることながら、軍神の足許に倒れて戦処女たちに連れられヴァルハラへ行けぬまま草葉の陰に消えていった兵士たちの、侘しく淋しげな声を聞く思い。A.ビアース『生のさなかにも』と双璧を成し、マッケンの『弓兵』に見劣りせぬ戦場の哀切さ。なぜ日本にかのやうな戦場に満ちあふれる痛みや悲しみを凜とした文章で著し、かつ魂を癒やし心清らにさせる戦争小説の書き手が在らぬのか。事実の報告や多少の脚色など小説ではない。」
と。
 この感想は、本稿の筆を執る前に『戦争の物語』へざっと目を通したときも、あまり修正を迫るものではなかった。とはいえ、このあとまぁ1日に3,4編が限度だろうが読み進め、やがて読了した暁に改めて起草するであろう感想に、いったいどのような言葉が並ぶのか。楽しみなようで、ちょっぴり怖くもある。
 いまのわたくしの願いは『戦争の物語』読書のみならず、架蔵するダンセイニへの恵愛に満ちた研究書『ペガーナ・ロスト』の未所持分を可能な限り買い集めて、耽読することだ。◆

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