第2683日目 〈新約聖書から、結婚にまつわる言葉を取りあげてみた。〉 [日々の思い・独り言]
「未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。」(一コリ7:8-9)
と、パウロは「コリントの信徒への手紙 一」第7章第8-9節で書いています。これがその章冒頭の、──
「みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。」(一コリ7:2-3)
につながる言葉なのです。
夫婦のありようについてはパウロは、また「テサロニケの信徒への手紙 一」第4章第4-5節にて、斯く述べています。曰く、──
「おのおのの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならないのです。神を知らない異邦人のように情欲に溺れてはならないのです」
と。
結婚については、イエスがヨルダン川東方ユダヤ地方にて、自分を試すファリサイ派の人にこう答えました、──
「イエスはお答えになった。『あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。』そして、こうも言われた。『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。』」(マタ19:4-6)
と。
今日は午前中は近所のスーパーに買い物、午後の暑い時間はリヴィングでぼんやり高校野球を観て過ごし、そのあと少しお昼寝して、夕方はずっと庭と自宅まわりを掃いて、草をむしり、夕食の仕度をして、と本を読んだりする時間がまったく取れなかった。むろん、こんな1日があるのも幸せなことです。
さりながら、ではブログの原稿はなにを書こうか、と考えてもいっこうネタはない。だから、というわけでは勿論ないけれど、昨夜寝しなと今朝起きてしばしの時間、漠然と読んでいた新約聖書から<結婚>について、拾い出してみたのです。
ナザレのイエスが使徒たちや説教を聞く人たちに宣べた教えはあくまで骨格であり、それは時間が経つにつれて多くの人たちによって喧伝されてゆきなかで、実をつけ花を咲かせ、やがて西洋社会の精神構造を形成してゆきました。
西洋の社会保障制度が「マタイによる福音書」に載る「ぶどう園の労働者のたとえ」をベースに発展していった成果だ、と或るキリスト教学者は著書に書いておりますが、その伝でいうなら、西洋の夫婦制度は──実体は如何に腐敗し、もしくは形骸化していたと雖も──上述の福音書やパウロの手紙の記述を核にして、固められていったように、わたくしには感じられるのであります。
このあたりはもう少し自分への宿題として、考えてみようと思うております。
さりながら既に上で引いた、──
「自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです」
「おのおのの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならない」
「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。(中略)神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」
という新約聖書の言葉は、極東の非キリスト者の心にも届く言葉だと思うのであります。◆
と、パウロは「コリントの信徒への手紙 一」第7章第8-9節で書いています。これがその章冒頭の、──
「みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。」(一コリ7:2-3)
につながる言葉なのです。
夫婦のありようについてはパウロは、また「テサロニケの信徒への手紙 一」第4章第4-5節にて、斯く述べています。曰く、──
「おのおのの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならないのです。神を知らない異邦人のように情欲に溺れてはならないのです」
と。
結婚については、イエスがヨルダン川東方ユダヤ地方にて、自分を試すファリサイ派の人にこう答えました、──
「イエスはお答えになった。『あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。』そして、こうも言われた。『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。』」(マタ19:4-6)
と。
今日は午前中は近所のスーパーに買い物、午後の暑い時間はリヴィングでぼんやり高校野球を観て過ごし、そのあと少しお昼寝して、夕方はずっと庭と自宅まわりを掃いて、草をむしり、夕食の仕度をして、と本を読んだりする時間がまったく取れなかった。むろん、こんな1日があるのも幸せなことです。
さりながら、ではブログの原稿はなにを書こうか、と考えてもいっこうネタはない。だから、というわけでは勿論ないけれど、昨夜寝しなと今朝起きてしばしの時間、漠然と読んでいた新約聖書から<結婚>について、拾い出してみたのです。
ナザレのイエスが使徒たちや説教を聞く人たちに宣べた教えはあくまで骨格であり、それは時間が経つにつれて多くの人たちによって喧伝されてゆきなかで、実をつけ花を咲かせ、やがて西洋社会の精神構造を形成してゆきました。
西洋の社会保障制度が「マタイによる福音書」に載る「ぶどう園の労働者のたとえ」をベースに発展していった成果だ、と或るキリスト教学者は著書に書いておりますが、その伝でいうなら、西洋の夫婦制度は──実体は如何に腐敗し、もしくは形骸化していたと雖も──上述の福音書やパウロの手紙の記述を核にして、固められていったように、わたくしには感じられるのであります。
このあたりはもう少し自分への宿題として、考えてみようと思うております。
さりながら既に上で引いた、──
「自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです」
「おのおのの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならない」
「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。(中略)神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」
という新約聖書の言葉は、極東の非キリスト者の心にも届く言葉だと思うのであります。◆
2019-08-13 02:00