第2700日目 〈恩師みまかり給ふ──追悼、岩松研吉郎先生。〉 [日々の思い・独り言]

 いや、定刻の更新が出来ずで申し訳ありませんでした。ちょうどその時刻はタクシーで帰宅中、とてもではないがブログの更新など出来る状況ではなかった。これもすべて、わたくしの意志の弱さ、飲んだくれの所業と思うてご寛恕願いたく候……。
 そうして今朝のこと。寝ぼけ眼で朝刊を読んでいたら社会面の片隅に視線が向いた。ヤオハンの元会長の訃報に、子供の頃家から何キロか離れたヤオハンに買い物に行った記憶とかよみがえり、ふむふむ、と懐旧に浸りながら隣の死亡欄へ目を移し、息が止まるような思いを味わった。
 そうか、岩松研吉郎先生もお亡くなりになられたのか……。
 ここ数年、年賀状のやり取りが続いていたのだが、今年に限って先生からの返書がないのが気掛かりだった。例年、こちらから出して松があける前後にお返事がある、というパターンだったものだから、ちょっと嫌な予感はしていたのだ、正直なところ。そこへ来て、今朝の新聞掲載の訃報記事である。
 先生との直接の交流は殆ど1990年代に限られる。その謦咳に初めて接したのは中世文学の講義であった。どうしたわけかその日だけ大教室での講義だったのだが、たしか『義経記』の講義であったろう。それがただの講義ではなかった。いや、或る意味では普通の講義だったのだが、先生の記憶力の凄まじさに学生は開いた口が塞がらなかったのだ。即ち、テキストとした日本古典文学全集版(旧版である、勿論)でいえば、4ページ程をすらすらと、途中なにかを見ることもなく淀みなく、さも当たり前のように朗読せられたのだった。そこから逸脱して、人形浄瑠璃の『鬼一法眼三略巻』からも幾つかの場面を朗読された、と記憶する。
 いまなら差し詰め「あの先生、ヤバい」ですべてを言い尽くしたような気にさせられるところだが、その光景へ直に接した側からすれば、そんな正体不明の単語で片付けられるものではない。ほかの学生はいざ知らず、わたくしの目にはまるで何物かが憑依したかに映ったのだ。そうして、まだ開講ならぬこの先生のゼミでは、いったいどのような学問をすることになるのか、と戦々恐々しつつ胸が高まるのを禁じ得なかった(そのゼミ、蓋を開けてみれば女子12名、男子1名という構成で、わたくしのみならず先生も想定しなかった状況が待ち構えていたのだが)。
 先生との距離が幾らかでも縮まったのは、御茶ノ水の学校を卒業して、誘われて三田を新たな学び舎として以後のことだ。『平家物語』の輪読会に参加したり、数度ながら和歌史について個人的なレクチャーを受け、また三田の生協で働くようになってからは仕事で研究棟に出入りすることも多々あり、そうして数日前にお披露目した加藤守雄研究を志してからは資料提供や示唆、或いは思い出話をうかがったり、加藤氏と面識あって現在も存命中の方々、國學院大學の折口博士記念古代研究所をご紹介いただいたり、と受けた恩はこうして書いても書き尽くせぬ程だ。
 もっとも、ではどれだけ恩師へ自分の研究成果を発表することが出来たか、といえば、これまた非常に心苦しい結果になり果てているのだが……。
 考えてみればここ数ヶ月(実際は数週間くらいか)、途端に折口信夫や折口学について考え、池田彌三郎の著作を繙き(先生は池田の愛弟子であられた)、加藤守雄氏のことなど書くようになったのは、岩松先生にそれらを提出し、改めて在野の研究者として活動再開する旨宣言するための、一種のデモンストレーションであったかもしれない。
 なんだかいまは宙ぶらりんになった気分だ。思い出ばかりが押し寄せて、2年続けて恩師と呼ぶべき人を亡くした悲しみが押し寄せてくる。
 これまで御茶ノ水と三田、それぞれで教わった師と呼ぶべき方のうち、既に4人が鬼籍に入った。岩松先生も含めて故人となられた恩師について、その思い出話など改めて筆を執ろう。◆

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