第2766日目 〈松本清張『或る「小倉日記」伝』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 松本清張の短編集、『或る「小倉日記」伝』(新潮文庫)を読みながらずっと脳裏をかすめ続けたのは、上田秋成が初めて書いた小説、『諸道聴耳世間猿』である。「末期浮世草子中の秀作」(『上田秋成全集』第7巻解題 中央公論社 1990,8)と謳われる『諸道』がどのような内容か、敢えて一言で断ずるなら、一ツ事に執した人がそれゆえにこそ道を踏み誤る、となるだろう。
 『或る「小倉日記」伝』に則していえば、集中5編にこの傾向が見られる。森鴎外の小倉時代を研究する若者を取り挙げた表題作。考古学研究者が己の信ずるところへ従って愚直に生きる姿を描いた「断碑」と「石の骨」。気鋭の延期式研究者が悪女に搦め捕られて将来を棒に振る「笛壺」。俳句に熱中するあまり、家事も育児も顧みず、宗匠へ自分をアピールするのに熱心な女性の生涯を捉えた「菊枕」。
 学問文芸に一方ならぬ情熱を抱いた人が、それが原因で生じた様々の軋みに取りこまれて道に迷い、或る者はそのなかで故人となり、或る者はそのまま転落し、或る者はそれまでの居場所から放逐される。
 この点を皮肉めいた教訓譚に仕立てれば浮世草子的となり、慈悲と共鳴をたっぷり注ぎつつ冷徹さを保とうとすれば清張の小説になる。つまり、踏みつけられる者、虐げられる者に抜群の同情を寄せながらも、かれらの生涯を語り伝えんとするその筆致はドキュメンタリーのように冷徹である、というわけだ。
 こうした姿勢は上に挙げた以外の作品にも共通していて、「赤いくじ」や「父系の指」、「喪失」などでもお目に掛かることができる。
 「赤いくじ」は敗戦を挟んだ朝鮮、全羅北道高敞を舞台にした、と或る出征軍人の妻に惚れた軍人と軍医のお話。戦時下でのメロドラマ、三角関係、といってしまえばそれまでだけれど、アメリカ軍がこの町へ進駐してきてからは、事態が一変する。かれらへあてがう慰安婦のくじ引きに件の人妻が当たってしまったのだ。軍医が人妻を連れて逃亡し、軍人は恋のライヴァル憎しでそれを追う。結末は書かぬ。本編にて清張の目は、軍医へ専ら向けられている。それはすべてをとして、また捨てて、弱者たる人妻を庇護する軍医への同情と、声にならぬ応援から生まれたものだ。<判官贔屓>というて、たぶん、過ぎはしまい。
 「父系の指」は、地主の長男に生まれながら里子に出されたことで人生の辛酸を舐める結果になった父を持つ男の話。父を心のなかで蔑んでいるが、裕福に育てられて社会の名士となった父の弟、即ち叔父一家と接するに及んで決定的にかれらとの絶縁を決める。お人好しでエエカッコシイの父親の描かれ方は、息子の嘲りや怒りと対比されて、なんだか楽天的を通り越して無辜の人である。ムイシュキン公爵の縁に連なる人と、わたくしの目には映るのだが──。
 さて、この『或る「小倉日記」伝』には〈傑作短編集(一)〉と添え書きがある。カバー裏には「現代小説の第1集」と。本書にはいわゆるミステリ小説は収められていない。時代や職業に違いこそあれ、いずれも市井の人々の生活を掬いあげた作品ばかりである。
 清張は美術の世界を舞台にした小説に傑作・名作・佳作を多く残したという。本書にも、そのうちの1つに数えてよいものがある。「青のある断層」がそれだ。
 主要人物は大まかに、2人。さしたる出来映えでもない絵を老舗画廊が買い取ってくれたことで有頂天になり、その後も希望持って絵を持ちこみ続ける青年と、以前から引き立てていた画家を再起させんの目的でのみ件の男が持ちこむ絵を買い取り続ける画廊主である。
 画廊主は買い取った絵を見せてスランプ気味の画家を発憤させ、一方で青年はそんな事情あるを知らず、未来が切り拓かれたことを妻と喜ぶ。
 が、青年はだんだんと疑問を抱き始めるのだ。自分の絵は果たして老舗画廊が買ってくれる程のものなのか、と。そうしてかれは改めて絵の勉強をやり直すため、有名画家に従いて画き続けることにした。すると画廊はかれの絵を買わなくなったのである。どうして買ってくれていたのか、どうして買ってくれなくなったのか。青年はどう考えてもわからない。
 かれは妻と一緒に故郷へ帰ることに決めた。東京を去る記念に、とかれらが泊まることにした修善寺の奥の閑かな温泉宿は、かつてスランプ気味の画家が隠れて画廊主が青年の絵を携えて通った宿であった、しかも皮肉なことに、部屋まで同じ。むろん、青年は画家の許に画廊主が足を運んでおり、画家の発憤材料に自分の絵が利用されていたことは、知らないままだ。精々が同じ部屋に逗留していたことを知って、「光栄ある因縁」(P399)という程度だ。
 青年は有名画家のスランプ脱出に利用された駒である。最初から世に出る可能性のない、死んだ芽だった。そうしてそれを知らぬまま、絵を止して田舎へ引っこみ、そこで無名の勤め人として生きることを決めざるを得なかった、偶然の悲運に見舞われた男なのだった。
 そんな青年へ、わたくしは心よりの同情と共感を抱く。正直なところ、他人には思えない程の、共感。一方で画廊主の、商人としての無情と才智に感銘を覚える。おそらく前者については小説家を廃業した自分が、後者に関しては現在の会社員としての自分が、斯く思わしめたのだろう。本書のなかで特に、わたくしはこの短編が好きだ。最も好きなうちの1つだ((今1つは「或る『小倉日記』伝」である)。
 読み終えてもう10日ぐらいになるが、この間、今日感想文を書くにあたって開いたのを別にしても、はて、何回読み返したかしら。これはめずらしい事象である。年齢を重ねるにつれて、何度も何度も読み返す小説は減ってくる。弱々しくも積み重ねてきた人生経験が、フィクションへの共振を拒んでくるのだ。
 拒む、とは誤解を与えるかもしれない。こういえばいいか、1,000の物語に触れても何度だって読み返したくなるものは1つ、2つあればマシな方である、と。年齢が若ければ割合は上がるし、高くなればその分割合は下がるのだ。稀にこの原則を真に崩す存在があるけれど、概ねに於いて斯様にいえるのではあるまいか。
 とまれ、先日触れた『徳川家康』により、今回の『或る「小倉日記」伝』によって、そうして現在ゆっくり読み進めている『西郷札』によっても、自分にとって松本清張は何度となく読み返すに値する作品を幾つも持つ、自分の肌に合う小説やルポルタージュ等を書く作家なのかもしれない。読む本に、しばらく不足はない。ダブル・デーの読書マラソンを阻害せぬ程度に節度を持って、ミスター・セイチョウ・マツモトを読んでゆきたい。◆

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