第2963日目 〈「本当の自由」を手に入れるため、経済再生を断行する。〉 [日々の思い・独り言]

 いま読んでいる本に、こんな一節があった。曰く、──
 「ところで自由とは、いまさらいうまでもなく、外に対して「借り」のない状態でもある。もし、今、何かの「借り」があるならば、それを返済しない限り、本当の自由にはなれない。自分の意思を十二分に発揮できない」(渡部昇一『なぜか「幸運」がついてまわる人10のルール』P125 三笠書房 2003/12)と。
 読んでいて、心にぐっさりと突き刺さった。
 先週の金曜日、わたくしは抱えていた負債をすべて返済した。「借り」を抱えていた長い歳月、わたくしは本当の意味で<自由>を堪能したことがない。何者にも束縛されない、完全無欠の自由と縁を結ぶ日が果たしてくるのであろうか。そんな猜疑に駆られて、不安に苛まされて、殆ど眠られずに過ごした夜は数えきれぬ程だ。
 一体どれだけの負債を抱えていたのか、と訊いてくるのは然程親しくない人、もしくは刹那袖すり合わせた程度の関係の人たち。親しき友らはおおよその全貌を知っている。幾許かなりとも援助を、そっと申し出てくれる友もいた。が、かれらの友情に裏打ちされた申し出を、わたくしは片っ端から断った。
 なぜ? なぜ、と問うか、君よ。理由は単純である。即ち、これはわたくしがわたくしの甘さと放埒が生んだ負債であり、その返済の責任とはわたくし一人に帰せられるべきものだからだ。カッコいいことをいうな、と陰口を叩かないでくれ。その負債を背負った瞬間から、これは1人で返さなくてはならないお金だ、と自覚があったのだ。最終的には揺らいで、家族の援助を仰ぐことにはなったけれど……情けないなぁ。
 援助を断ったとき、自分の心のどこかにサー・ウォルター・スコットの逸話がちら、と掠めたことは否めない。スコットは連帯保証人になっていた友人の負債をすべて背負いこむことになり、著作の版権売却や土地を切り売りするなどしてまずは返済の目星を付け、その後はひたすら筆一本で稼ぎ続けて死ぬ頃には殆ど返済が終わっていたという、例によって渡部昇一『続 知的生活の方法』(P62-64 講談社現代新書 1979/4)で知った逸話が。
 それを気取ったわけではけっしてなかったけれど、まぁ結果的にはそうなったね。
 でも、返済期間中は苦しかったよ。最低限人並みの生活はできたけれど、「本当の自由」は満喫できなかったなぁ。その月の返済を終わった直後に感じる小さな安堵が精々だったか。何度となく緊縮財政を断行し、支出を切り詰め、収入を増やすため仕事量を増やして睡眠時間を減らすような生活を強いられたことが、何度もあったっけ。いまとなっても思い出すのは厭わしい。
 斯様なことはありと雖も、長い時間を掛けてわたくしは毎月遅れることなく返済を続け、ようやっと最後のまとまったお金を先日、お金を借りてはいけない金融機関に1円の単位まで支払い、完済証明と残高証明をもらった……解放された気分であった……歌おう、感電する程の歓びをっ!!
 とはいえ、今月は負債を完済したに過ぎない。本格的な経済再生はこれからだ。ランニング・コストの遅滞なき支払いは勿論として、かつて申しあげた「よくない遊び」と縁を切り、以前のような健全なる投資と貯蓄に精出すことができる環境を復興して、それが持続可能な財政状況を生み出すこと。それが本当の意味でのわが経済再生であり、本当の自由の堪能であろう。
 まだ見ぬ未来のために、実現したい未来のために、この再生計画を断行してゆこう。◆

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