第3210日目 〈心のざわめきを鎮めるため、ふたたび聖書を読み始める。〉 [日々の思い・独り言]

 過日、気持ちの上に変化が生じた際、時代小説を読む、と書いた。けっして嘘ではないがそれは、最近──ここ数年はそれが顕著でね、というのが極めて実態に近い。時代小説は、歴史小説も含めてそうですが、わかい頃から断続的に読んでは来ていた。或る目的のための読書であり、いまのようにゆめ気分転換とか平静保ちの手段として読んでいたのとは事情が違う。
 とはいえ、気持ちの上に変化が生じた際や平静を保ったり気持ちを鎮めるため、手に取る本はそれ以前からある。むかしから本ブログを閲読くださっている読者諸兄であれば、ピン、と来るはずな、世界最大最長のベストセラー、翻訳された言語は枚挙に暇なく地域的にも空前絶後の広まりを見せ、いまや民族や地域の別なく手に取られて読まれている、たった1冊の本。つまり、聖書である。
 今日(昨日ですか)、ちょっとした出来事があって、帰宅しても疲れと収まらぬ感情から家族と殆ど口を利けず、一頻り自己嫌悪に陥ったあとでふと旧約聖書を手にして「創世記」から読み出したのが、今日の原稿を書くきっかけ。読んでいて、すくなくとも気持ちが落ち着きを取り戻そうとし始めたのは感じた。心の襞にすぅっ、と染み渡ってゆくのも、感じられた。わたくしにとっては聖書こそが精神安定剤の役割を果たす書物だ。おそらくこれに匹敵するのは、……いや、まぁ、いろいろあるな。
 これまでだって開いたページを出発点にしばらく読み耽ったことはあった。「創世記」や「トビト記」、「マタイによる福音書」のそれぞれ第1章から読み出してしばらく章を進めたこともあった。1日で放り出すこともあれば、数日、数週間と続き、時に寝る前の就眠儀式にもなった。が、今日のように「これからすこしずつ読んでゆこう」と思うたことはなかったように思う。或る意味で今回が、2回目の読書の再開になるか。
 テキストは前回と同じ、新共同訳聖書旧約聖書続編附き、1ページ横組み2列のハンディ版。
 この機会だからフランシスコ会訳とか新改訳、現時点では最新の翻訳となる聖書協会共同訳、もしくは文語訳で、など考えたけれど、けっきょく「あれ、新共同訳ではどんな表現になっていたっけ?」など立ち帰ること度々となるであろうことは容易に想像がつく。加えて旧約聖書続編も聖書読書には不可欠の書物が含まれるので、これなき聖書を果たして斯く呼ぶべきか……、否、その一言である。
 ならばこれまで同様、新共同訳聖書旧約聖書続編附きを読書の基本として据え、主としてカトリック教会で用いられて第二教典──続編の一部書物(※)を旧約聖書に含むフランシスコ会訳と、プロテスタント教会でも福音派が専ら使う新改訳(新改訳2017)、他を適宜参照してゆくことにしよう。ついでにいえば、ベッドから手を伸ばせばすぐの場所に、新しく買った新共同訳が置かれていた、というのも背景にある。
 これからはすこしずつ、聖書にかかわるエッセイをお披露目することもあるだろう。さしあたって可能性があるのは、「創世記」第1章の文言に抱いた違和感、疑問の報告と解明、かな。◆

※「トビト記」「ユディト記」「マカバイ記・一」「マカバイ記 二」「バルク書」、以上を指す。□



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