第3405日目 〈荒俣さん、紀田さん、保土ヶ谷区尾上町、ってどこ!?〉 [日々の思い・独り言]

 荒俣宏『平井程一 その生涯と作品』感想は既に短いものを別に書いているのでそれに譲り、本稿はそこから切り出した疑問を、分量を拡大させて一稿と成すものである。たぶんわたくしが横浜市民でなければスルーしていたに相違ない疑問である──然り、読み始めて早々に引っ掛かりを感じてしまうた箇所が、本書にはあったのだ。その一節をまずは引用する。曰く、──

 慶應義塾維持会加入者の報告にも、明治三十五年の三月六日から四月五日の間に、預金一口加入者として、「神奈川県保土ヶ谷 谷口喜作君」の名がある。この「保土ヶ谷」という地名は現在の神奈川県横浜市の保土ヶ谷区尾上町を指す。横浜の中心部である尾上町は単に「横浜」と記している例が多い。(P24)

──と。
 谷口喜作は平井父、初代喜作をいう。「横浜の中心部である尾上町」とは中区尾上町だろう──まさか保土ヶ谷を指して「横浜の中心部」と曰う御仁もあるまい。
 あらかじめいうてしまうと、保土ヶ谷区に尾上町という地名は存在しない。他郷民の調査不足、史資料読み違えの域を出ぬ、といえばそれまでだが、監修者としてかかわる紀田順一郎は果たしてこの箇所になんの引っ掛かりも覚えなかったのか。横浜に生まれ育ち、横浜についての著述を持つのに、保土ヶ谷区に尾上町なんてあったっけ? と疑問を抱いたりしなかったのか。
 失態の根本は勿論、著者荒俣宏にある。いったい著者はどんな資料を典拠に、「現在の神奈川県横浜市の保土ヶ谷区尾上町を指す」と原稿に綴ったのか。本書にはこうした地方史にかかる参考文献を挙げる作業を一切怠っているため、如何な資料を用いたかは不明だ。いったい「保土ヶ谷区尾上町」の根拠はなんだ。まさか後に引く談話だけ?
 開港以来21世紀の今日に至るまで、旧保土ヶ谷区、現保土ヶ谷区と旭区に「尾上町」はいちどとして存在したことはない。“現”というのは昭和44(1969)年10月、人口増のため行政区再編成により保土ヶ谷区から旭区が分区、誕生したためだ。勿論件の町名の非存在は明治新政府による行政管轄が始まって以来のことでもある。
 そうして横浜市に「尾上町」といえばいまもむかしも、現在の中区尾上町ただ1つがあるのみだ。
 いったいどうして斯様な誤認誤記が罷り通ってしまったのか。同じ保土ヶ谷区の神戸町についてはまぁ、整合性の取れた記述がされているのに(P34)。
 実はそこにも小首を傾げざるを得ない一節がある。曰く、──

 〔編者注〕程一・彌之助の実際の出生地は、このとき初代喜作が商売を行っていた神奈川県程ヶ谷字神戸(『海紅』第三巻五号、大正六年七月一日刊に掲載された二代目喜作の自己紹介による)であった。……したがって、程一らが誕生したときの正確な地名は、「神奈川県橘樹郡程ヶ谷字神戸」となるだろう。……また、明治三十八年の横浜うさぎや開業前後から用いられる住所は、「横浜市尾上町三の三」であり、現在の住所表示では神奈川県横浜市保土ヶ谷区尾上町(二代喜作妻惠子氏による)に該当する。ただ、この住所が「程ヶ谷字神戸」と同じ地を指すかどうかまでは実地確定できなかった。(P33-34)

──と。二代喜作、は程一の兄彌之助として先に出た。「うさぎや」はいまは上野や日本橋等で開業する和菓子の老舗である。
 いやいや、待ってくれ。二代目喜作未亡人の談話を信じるのは構わないけれど、活字にするならせめて裏を取ろうよ。<これ>のエビデンスは<どこ>にあるのか、と。
 これは戦後、平井に対する荷風の筆誅の内容を疑うことなく信じて、文壇から村八分状態にした幸田露伴や出版社の編集者連の行動とまるで変わらぬ。平井呈一の弟子たる2人がどうして同じ轍を踏むか。悪意云々からではなく確認を取らず信じることの危険を、わたくしはいうておる。勿論、自戒をこめてだ。
 然るべき行政機関──保土ヶ谷区役所、旭区役所、横浜市役所、神奈川県庁──や公共施設──神奈川県立図書館、横浜中央図書館、神奈川県立歴史博物館、横浜歴史博物館、など──に問い合わせれば労せずして済む話ではないか。横浜市史、保土ヶ谷区史、旭区史を繙けば1時間と経たぬうちに解決するぞ。
 結論;幕末の宿場町時代からこの方、保土ヶ谷町/区の「神戸」は「神戸」であり続け、昭和戦前期に「神戸下町」と「神戸上町」に分かれたことはあったけれど、「尾上町」なる町名に取って代わった時期も事実も記録もない。重ねていう、現在も過去も保土ヶ谷区に尾上町は実在しない。横浜市に「尾上町」というは、いまもむかしも中区にあるのみだ。
 ──結局のところ、そもどうして斯様な誤りが生じてしまったのか、原因は定かでない。わたくしも此度、本書の感想文を書こうと再読してこの件に気附いたのだからなにをか況んや、であるけれど、本稿はちょっとした引っ掛かりが1つの大きな疑念に成長し、区や県の役所に勤める知己に訊ね、図書館の所蔵資料を繙いて調べた結果である──いや、源を辿れば吉川英治の少年時代の勤務先がいまのわたくしの職場と同じ場所にあった、という小さな驚きから始まってたか。
 著者も監修者も取材協力者も、担当編集者も校閲担当者も等しく陥った当事者の談話を鵜呑みにして信じこみ、簡単に片附いてしまう裏づけ調査を怠ってくれたことからこの小文は生まれた。
 正直な気持ちをいわせていただければ、わたくしはこれを、郷土史にまつわるエッセイとして書いた。なにげない疑問が斯くして解決したことにいささかの喜びを感じながら。◆

参考文献
01;保土ヶ谷区制五十周年記念誌『保土ヶ谷ものがたり』
   保土ヶ谷区制五十周年記念事業実行委員会
   昭和52(1977)年05月

02;保土ヶ谷区史編集部会『保土ヶ谷区史』
   保土ヶ谷区制七十周年記念事業実行委員会
   平成9(1997)年10月

03;横浜市史 Ⅱ 
   第3巻(上) 平成14(2002)年03月
   第3巻(下) 平成15(2003)年07月
   総目次・索引 平成16(2004)年03月
   編集;横浜市総務局市史編集室
   発行;横浜市

04;横浜市区分地図 6 保土ヶ谷区(エリアマップ) 別冊町名索引
   昭文社
   刊記なし□

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