第3400日目 〈捜すのをやめようとしたとき、見つかることはよくある話ですね。〉 [日々の思い・独り言]

 すごく良いタイミングで……と思う。またまた片附けの話、が、それも今日が最終日。
 発掘した、発見した。全身から力が抜けた、もうこれで捜索せずとも済むのだ。達成感を味わった、懐かしさに胸が熱くなった。
 然り、例の古典の文法書が、廊下に積まれた小山を崩しながら最後に開けたダンボール箱からひょっくら顔を出したのだ。永野護『PLASTIC STYLE』と『MAJESTIC STAND』にサンドウィッチされているとは、流石のわたくしにも想定外であった、と告白しておきたい。
 火事の片附けが間に合わなくなったのか。或いは気力が削がれていたためか。取るものも取りあえず片っ端からダンボール箱へ放りこみ、時間ができたらゆっくり(清掃も含めて)中身を確認しよう、とか考えていたのかもしれぬ。如何せん20年近く前の話だから、なんともいえぬが。
 斯様なことはあったと雖も捜し物は見附かった。いま、それは机上にある。
 そうして例によって意外なる印刷物も、同時にそこへ見出したのだ。どれだけ捜しても見附からなかったのでてっきり、火事の際処分したのだ、と思いこんでいたイギリスの画家、サー・ローレンス・アルマ・タデマの画集が、文法書よりも下の層に埋まっていた。横浜SIALの画材店の店頭にあったポストカード・ラックをくるくる回していた或る日、出会った画家である。
 当時はまだ画集を捜して買う程の財力も行動範囲もなかったのでポストカードだけで満足していた。というよりもたぶんその頃、画集は発売されていなかった気がする。母校の、所縁ない美術科の先生や学祭の準備で知りあった学生に訊いて回っても、知る人はいなかったと記憶するから。
 此度発掘した画集の奥付を検めると、1993年10月刊、とある。出版社は、いまはなきトレヴィル。卒業したのが同じ年の春なので、質問するタイミングが少々早かったのだろう。この年は内定取消に遭って就職浪人で社会へ放り出されて、肉体労働に精出していた時分だったな。そのせいでか、軍資金は相応にあった。ゆえに神保町の三省堂だったろうか、それとも美術書専門の古書店か、まったく違う書店である可能性も否定できないが、見附けるや刹那の逡巡を経て買うことができたのだろう、と思う。
 他にもダンボール箱からは、こんなの買っていたのか!? とわれながら吃驚するようなものも出てきた。弘文荘から出された『弘文荘敬愛書図録 Ⅱ』(1984/02)だ。神保町の三茶書房の値札半片がカバー裏袖に貼られているが、ここで購入した記憶はとんとない。むしろ薄ぼんやりとだが行きつけの伊勢佐木モールの古書店で見附けて、勉強目的で購入したような気がしてならない。
 1990年代の古書蒐集の柱の1つは古典籍の販売目録だった。東京古典会の『古典籍展観大入札会』目録が中心になったのは、長期戦さえ覚悟すれば1,000円程度で古書店の棚で見附けることができ、ジャンルも量もヴォリュームの点で他を圧するこの目録1冊を舐めるように読み、図版を仔細に眺めるのがいちばんの勉強になったから。
 火事のあと国文学(古典)関係の本はこの目録も含めて1冊たりとも処分することなく、煤を払い、拭き、を何度も繰り返していま部屋の書架の過半を占めているのは、まだ気持ちのどこかで研究者になる夢を捨てきれずにいたからだろう。ときどき本ブログに「誰が読むんだ」と思うような考証的なエッセイだったりが載るのは、夢の名残であるかもしれません──。
 名残序にいえば、これこそが処分したと思いこんでいたが実はちゃんと残していた、の最右翼はやはり20代、伊勢佐木モールと神保町の古書店の店頭で嬉々と漁っていた浮世絵の複製だった。サイズは、正確には大判錦絵よりも縦は約4センチ、横は約1センチ強ばかり小さなものだが、ほぼ原寸大ということで納得して少しずつ集めたものだ。集めていいたのは初代広重の作物ばかりで、A3ファイルに入った「名所江戸百景」の他、「大日本六十余州」と代表作「東海道五十三次」をバラで、しかしシリーズの過半が集まっている。いずれも揃いでないのは途中、仕事と家事とで蒐集の中断を余儀なくされたため。あの古本屋さんではいまでも、復刻浮世絵が然程変わらぬ値段で売られているだろうか? 残りをコツコツ集めてゆきたいのだが……。
 ただ、初代広重ばかり集めて、一緒に売られていたはずの写楽や北斎の複製へ手を出さなかったのは、勿体ないことをしたものである。未来がわかっていれば無理をしてでも、売り物をぜんぶ買い取る勢いで集めたのになぁ。
 藤沢周平の時代小説を好んで読むようになったいまなら尚更、そう思う。ちなみに藤沢周平に浮世絵作者を主人公にした小説が多いことはよく知られているが、藤沢は勤務の傍ら銀座などの画廊に時間があれば立ち寄って、作品を鑑賞していたそうである。また、藤沢周平名義での小説創作は、広重に始まり広重に終わった。即ち、画力の衰えてきた北斎が広重の登場に戦々恐々として最後は闇討ちさせようと企てるデビュー作「溟い海」から、広重の絵を題材にしてそこからインスピレーションを得、物語を紡いでいった「日暮れ竹河岸」である。尚更、というのはそういうことからである。
 ──色々お話ししてきたが今日の作業を終え、こうして発掘品の数々を思い出して頷くのは、まだ再興/再起そうして継続は可能だ、ということ。在野の研究者──とは烏滸がましいが紹介者、考証家として筆を執るための調査ツールはまだ1点も失っていなかった。これは、安心、であり、自信、だ。そうして話題も無尽蔵に掘り起こすことができる。井戸の底はまだ見えていなかったのだ。良かった。わたくしはまだ書くことができる。これを喜びといわずになんといおう?◆

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