第3484日目 〈自伝と伝記。〉 [日々の思い・独り言]

 先日読売新聞の書評欄でも紹介された『我が人生 ミハイル・ゴルバチョフ自伝』(東京堂出版2022/07)をゆっくりと読んでいる。〆切のある原稿を依頼されたわけでもなし。ゆえに文中の地名や戦闘を電脳空間の力を借りて確認しながら読み進め。これは素人の特権といえるだろう。
 活躍した分野に関係なく伝記や自伝を好むのは、小学生の頃所謂「偉人の伝記」を読み散らして飽きることがなかったからだろう。学研のマンガやポプラ社、講談社ほかの伝記を買い与えてくれた両親、貸してくれた兄と友人、それを揃えた学校図書館、いずれにも感謝である。
 さて、話題を『我が人生 ミハイル・ゴルバチョフ自伝』に戻して。
 1度は最後まで目を通したとはいえ、まだ第1章。いまの再読はどちらかといえばじっくりなペースなので、こんなことになった。ざっと最後まで目を通して、これはきちんと読まなくっちゃアカンな、と思うて読み直しているのである。
 読み返して良かった。最初の通読ではゴルバチョフ幼少時の家族の歴史、就中父の従軍にまつわるエピソード、子供たちを食べさせるために母が負った苦労など、印刷された活字の域を出るものではなかったからだ。
 いまは──違う。命を吹きこまれて血の通った生身の人間として、わたくしの前に立ち現れる。後のゴルバチョフ、即ち幼いミーシャを中心にした一個のライフ・ヒストリーが再現されている。
 読み直し(とは事実上の初読も同然だが)によって、教科書や大部の世界史書籍では語られない独ソ戦の一戦闘にゴルバチョフ父が参加し、武勲をあげていたこと、母が食糧を得るために遠くの村まで出掛けていって、許可された配給以上の量を持って帰ってきたことなど、この作業なくして目を留めることは恥ずかしながら、なかっただろう。
 果たしてこうした出来事が、第三者の筆に成る伝記に記載されるか。あたかもレポートのような扱いで載ることはあっても、そこには〈人間〉がいない。紙芝居や人形劇を観ている気分だ。そこそこ精細に書かれたとしても、今回の場合であれば自伝を典拠とした引き写しになるのでは。生前のゴルバチョフ本人にインタヴューした、軍当局に保管される資料を発掘した──いずれも余程のケースでなければ望み得ないだろう。
 自伝と伝記の異なる点は、1つは客観的な立場で、視点で書かれているかどうか、1つは幼少時の家族の歴史が詳細に描かれているかどうか、に尽きる。対象人物が存命か故人かは大きな差異ではない。自伝は存命中に書かれる(語られる)のが常だが、伝記は没した後に書かれるとは限らぬ。カラヤンを見よ。1989年07月に亡くなるまで、いったい何種の伝記が公刊されたか。
 そうして表舞台に登場するまでの出来事──生い立ち、一族の歴史、個々人のパーソナル・ヒストリー、その人生の断片──に関しては、伝記よりもやはり本人の口から報告される自伝の方に、軍配は挙がるように感じられる。
 だから、というわけではないが、伝記よりは自伝が好きだ。語られる事柄に信憑性の疑わしい部分があったとしても、多少なりその人物について知識あれば自身を正当化するような記述に遭遇しても、やはり大事なのは「本人の口から語られている」ことではないかな。今度はその発言を検証してゆく、という愉しみもある(自分だけ?)。
 それにね、正直なところをいえば、ゴルバチョフくらいの人物になると書かれる伝記は余りに精微に過ぎて、途中で読む気をなくしてしまうんッすよね〜(桜小路きな子風に)。やれやれ。◆

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