第3511日目 〈遠藤周作『聖書のなかの女性たち』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 遠藤周作『キリストの誕生』を読了したのが今年08月09日、それから然程間を置かずに読み始めたのではなかったか、同じ著者の『聖書のなかの女性たち』(講談社文庫 1972/11)である。枕頭に置いて眠るまでの数10分、いったい何ヶ月費やしてこの薄い文庫を読み終えたかの感が強い。2022年10月16日午前読了。
 『イエスの生涯』で明示した〈人生の伴走者〉イエスを、ここでは聖書のなかに現れる「日陰に身を置く女性たち」に寄り添い、彼女たちの苦しみや孤独を背負おうとする連帯者として描くことになった。福音書を繙いてもイエスは、人生に満ち足りた人たちには返す刀で退ける場面が目立つというのに、自分の人生に満ち足りた人たちを敢えて避けて、謂われぬ咎、抗うこと不可な運命に見舞われた女たちを探して関わりを持とうとしている。
 活字の小ささゆえに毎晩手にすることはできず、読もうか、という気分になったときにしか手に取れなかったことを、ちょっと後悔している。多少の無理を押してでも毎晩、それができぬとも2,3日に1日はこの文庫を開く方が良かった。とはいえ、これは読み終わったいまだからこそいえる詭弁の一種かもしれないが。
 『聖書のなかの女性たち』というタイトルゆえに、まだイスラエルとヨルダン両国が分割統治していた頃の訪問記「エルサレム」、ルルドの泉の神秘とカレル博士の転換を描いた「ルルドの聖母」、著者が病気で入院しているときの随想「秋の日記」を目次に見たとき、途惑いや疑念の気持ちを抱く人もあるやもしれぬ。
 が、むしろ本書にこれらを欠いたらばそれこそ聖書に現れた女性たちを描いたエッセイの価値は半減し、またこれらあることでそうしたエッセイの補完が成されるのだ。つまり、どれが欠けても『聖書のなかの女性たち』は成り立たない、ということである。
 これを読んでいるとついと、エルサレムやガラリヤ、カファルナウムなど聖書ゆかりの地で、かつかの女性たちが生きた土地をこの足で踏みしめ、この手で触り、この目で見て、記憶に焼きつけたいてふ思いが、強く強く育てられてゆくのを感じるのだ。
 本書を以て遠藤周作による「三つの『聖書物語』」(武田友寿「解説」 『私のイエス』P241)を読了した。このあとは、同じ遠藤の『私のイエス』(祥伝社文庫 1988/07)を読む。◆


聖書のなかの女性たち (講談社文庫)

聖書のなかの女性たち (講談社文庫)

  • 作者: 遠藤周作
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2013/12/13
  • メディア: Kindle版




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