第3513日目 〈あれも、これも……は止めよう。〉 [日々の思い・独り言]

 本のこと。あまりに沢山の本を、必要あってとはいえ買いこんだことを後悔している。いちどに消化できようはずもない量が溜まってしまい、床から生えた山を眺めては溜め息を吐いている。
 先日、さっさとブログ他用の原稿を書いてしまって、さっさと不要な本は売り払おう、と決めた。その旨ここにも書いた記憶がある。それに関わる話だ。
 キャパシティを越える、とはきっと、こんな状態を指すのだろう。政治家の伝記/自伝や国家論の類は青色吐息でどうにか、予定した分は読み切った。最初のうちこそ丁寧に読んでいたが、段々と流し読みになった──内容は、細かいところについては自信がないが大体覚えている。大まかな流れは抑えられた、という方が良いか。
 そうしてそこで、へたばった。次に手を着ける予定の本の群れにはいっこう手が伸びず、道草喰ってそちらの読書を愉しんでいる始末。
 こんなことでは駄目だ、と、昔の自分ならいうだろう。けれどこちらもそろそろ、あとどれぐらい読めるかなぁ、と倩考え始める時期に差しかかっているのだ。そうして唖然茫然、うっすらとでも影がチラつくようになった〈終わり〉を目の端に捉えて、嗟嘆するより他ないのであった。
 というわけで、腰据えて読まねばならぬ本は厳選することにした。目次や序文(まえがき)、結語(あとがき)と参考文献、索引にだけはきちんと目を通してから、流し読みするか、腰を据えるか、超速読で済ませるか、判断して、選り分けてゆかないと、買う量と読む量の均衡が完全に崩れて元に戻らなくなる──。
 斯く思うたのも、聖書関係の本を読んでいるのは勿論として、そうしたものを買って読んでいるのはとても愉しく、よくわかることを改めて確認することになったからだ。わからぬながらもちょっと調べたり聖書を開けば概ね解決する、本が話題にする内容の方向性はなんとなくでも把握できる。
 つまり、読んでいて倦くことを知らないのだ。時間は掛かったが聖書を「創世記」から「ヨハネの黙示録」まで、続編込みですべて読んだ、外典にも目を通した、てふ自信がそこにあるのはいうまでもない。
 今日も大貫隆『聖書の読み方』(岩波新書 2010/02)と青野太潮『どう読むか、新約聖書』(ヨベル新書 2020/12)を買って、帰りの電車のなかで読んでいたら、とても面白くて降りる駅に到着してもそれと気附かなかった程だ(一駅先の戻る電車がなかなか来なかった)。遠藤周作『キリストの誕生』のノートをまとめていたことも、そのときの気分に作用していたろうか。
 勿論、久方ぶりに読んで愉しく、時間を忘れたのは──つまり政治家の本や国家論等を読んでいたときとは異なり──聖書やキリスト教、ユダヤ教、キリスト教会、キリスト者についての本ばかりではない。イスラム教やイスラム社会についての本も面白かったし、書物随想、日本史やローマ帝国史、そうして〈怖い話・気味のわるい話・謎解きの話〉を読んでいると、時間が経つのも忘れてしまう(ローマ帝国史で一言添えると、わたくしの場合、ギボンが描いた時代以前については殆どキリスト教史と同義かもしれない、と思うている)。
 そんなことがあったからか、原点回帰を目指すわけでもなんでもないけれど、読書にあたってなにかしらの選別を行い、腰据えて読まねばならぬ本を厳選することにした、というのである。
 まったくなんでもう、こんなに本があるんやろ? 答え;本能のままに買い漁ったからです。◆

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