第3531日目 〈秋の古本狂詩曲;池田彌三郎他『折口信夫対話』の旧蔵者を妄想して。〉 [日々の思い・独り言]

 〈狂詩曲〉は続く。お楽しみは、終わらない。
 ぼんやりと古書店のサイトを眺めていたら、なつかしい本を見附けた。学生時代とそれに続く数年間、憑かれたように購い、読み、時に然るべき人物に会って種々聞き取りした、折口信夫の本である。書題を『折口信夫対話』全3冊という。角川選書、1975年01月及び1978年08月刊。
 たしか端本で持っていたと思うが、捜してみてもどこにもない。折口信夫や折口学の本はただの1冊も手放したことはないのに、どうして架蔵するうちにはないのだろう。端本ということもあって、やっぱり処分したのかなあ。だとすると、あのころわたくしが持っていた(と記憶する)端本は、その後どんなルートを辿って、どんな人がいま所蔵しているのかな。資源ゴミとして廃棄された、という想像はしないこととする。
 話が遠回りしたけれど、古書店のサイトで見附けた『折口信夫対話』全3冊は刹那の躊躇いもなく購入ボタンをクリック、振込も早々に済ませて祝日の前日に届いたのである。
 なつかしさ半分でぺらぺらページを繰って流し読みしていたら、第2巻「この書物を愛する人たちに」という角川源義による発刊の言葉のページに、書込みのあるのを発見した。曰く、「昭和五十一年四月十日 第一書店」と。
 購った古書への書込みを見て、前の所有者へ思いを馳せるのは古書書好きであれば誰しも身に覚えがあること。小説やエッセイの題材にもなる。ジョージ・ギッシングの『ヘンリ・ライクラフトの私記』は最も人口に膾炙した例かもしれない。
 作者が自分を仮託した本編の主人公(語り手)ライクラフト氏は、ロンドンのグッヂ・ストリートにある古書店で、ハイネ校訂ティブルス詩集が売られているのを見附ける。売価は6ペンス。発見時のライクラフト氏の全財産も実に6ペンス、「それだけあれば、一皿の肉と野菜が食べられるはず」(P48 平井正穂・訳 岩波文庫 1961/01)だった。
 買うか買うまいか迷った末、かれはなけなしの6ペンスをはたいて、詩集を家に持って帰る。バターを塗ったパンを食べながら貪るように読み耽るライクラフト氏は、前所有者であろう人物による、こんな書込みを見出した。曰く、「一七九二年十月四日読了」と。

 ほぼ百年前、この本を持っていた本人はいったいだれなのであろうか。ほかになにも書き込みはなかった。いわば自分の血を流し、命をけずる思いでこの本を買い、私と同じくらいこれを愛読したある貧乏な、そうだ、私のように貧乏で熱心な研究者が想像したくなるのだ。どれくらい私が愛読したか、今ちょっとやそっといえそうにない。心優しきティブルス! (同)

 同じことを、『折口信夫対話』前所有者に対してわたくしも思う。いったい前所有者はどんな人物なのだろうか、と。それは興味尽きない想像である。
 書込みのある第2巻は昭和50(1975)年01月刊、第1巻にも同じ刊記がある。つまり、同時発売されたのだ。その第1巻に書込みはない。おそらく前所有者は別々の機会にではなく、同じ日に、同じ書店で購入ものと思われる。
 購入した昭和51(1976)年04月、その人は何歳だったのか。「古典と現代」(第1巻)、「日本の詩歌」(第2巻)とそれぞれ副題を持つ『対話』との出会いは、どのようにして成されたのか。
 その人は、國學院大學や慶應義塾大学、文化学院、魚津短期大学や東横女子短大あたりで国文学や民俗学を学ぶ学生(院生含む)だったのだろうか。04月購入というから、履修する講義やゼミのテキスト、参考文献だった可能性が高い。
 逆に購入したのが国文学や民俗学を専攻した学生ならば、そこにはノスタルジーが働いたかもしれない。社会人になっていれば、2冊を同時に購入するだけの懐の余裕もあっただろう。もし前所有者が、専攻や学び舎とはまるで関係なく、ただ己の向学心に従って購うていたらば──咨、その心ばえ、まこと敬服の至りといえよう。
 買った「第一書房」とは、どこにあった本屋さんだろう? 2022年現在調べてみると、函館市内に同じ屋号の書店があるが、ここ、と確定できる要素はなにもない。どこにでもある、ありふれた屋号、といってしまえばそれまでである。
 ところで此度わたくしが購うた『対話』全3冊は、全体の状態などから同じ所有者の蔵書であった、と推察できる。経年により染みや焼け、汚れなど殆ど見られぬ、保存状態のすこぶる良い美本なのだ。喫煙者か否かは不明だが、少なくとも読みながらタバコを噴かす人物ではなかったらしい。タバコ臭は微塵も匂わぬ。
 3冊すべて同じ人物の蔵本てふ判断の決め手は、第3巻「万葉集輪講」奥付の書込み、その筆蹟が同一であること。筆記具の違いこそあれ、「昭和」の筆運び、漢数字「五」の書きグセなど、科学的に鑑定すれば9割上の確率で一致するはずだ。
 「昭和五十七年十一月二十一日 / 浦和『須原屋』にて 文彦とともに。」が第3巻奥付の書込み。
 気になるのは、第2巻書込みと第3巻の年月日の筆蹟が、2行目「浦和『須原屋』にて」云々がやや走り書きのようで、下へ行くにつれて右寄りになっていることだ。──車や電車のなかで、前所有者はこの書込みをしたのか? まさか! ホームズじゃあるまいに。
 第2巻のそれがくっきりと、しっかりと書かれているのに対して第3巻は、筆記具がボールペンのせいもあってかその筆勢は若干弱めである。第2巻と第3巻の間に6年の歳月が流れていることと無関係には思えぬ。第2巻を購入したときと第3巻を購入したときとでは、前所有者が置かれた環境も、前所有者を巡る事情も、大きな変化を迎えていたのではないか。
 その端正な書体から、前所有者は女性ではあるまいか、とわたくしは推察する。蔵書一々に対して几帳面に購入記録を書いていたりする点や、発売から1年以上が経過して購入している点などから、そこに男性というよりも女性の朧な立ち姿を想像するのだ。第1巻と第2巻購入時が学生、しかも現役合格しており入学して間もない頃、或いは専攻が決まる3年生いずれかとすれば、年の頃18歳或いは20歳か。
 この前提に立って推理すると、では果たして「文彦」とは何者か──恋人か、婚約者か、夫か、息子か。
 否、恋人ではあるまい。名前を書くということは、その相手と前所有者には相応の関係性が築かれていなければならない。少なくとも社会的に関係が認められる人物である必要があろう。未来がどうなるか不確定な恋人の名前が書きこまれるとは考え難い。ならば、──
 わたくしは「文彦」なる人物は、前所収者の息子ではないか、と考える。精々が幼稚園に通う年齢ぐらいまでの。要するに、反抗期を迎えていてもまだ親の力の方が優る時期までの。
 6年の間に前所有者は大学で折口信夫の学問体系を学び、卒業して就職し、伴侶を得て、「文彦」と名附ける息子を授かった。前所有者の、斯様なライフヒストリーの断片が、件の書込みから作られる。
 浦和の書店、須原屋には息子を連れた病院の帰りか、絵本でも買ってあげようかと思うて立ち寄ったものかもしれぬ。更に想像を逞しうすると、病院帰りと仮定した場合、それは「文彦」が小児科等を受診したというよりは前所有者自身の受診──つまり懐妊であり、文字の弱さを思えば悪阻の激しい妊娠初期だったのではあるまいか。再びの新しい命を宿したその喜び、その幸せ、その気持ち悪さ、といった感情が、「文彦とともに」の書込みの背景を成す、と結論する。
 ──と、こんな風に、『折口信夫対話』第2巻と第3巻の書込みから、前所有者のことを斯く想像した。ケメルマンのように上手く推理のゆかぬことが残念である。
 なお、浦和の書店「須原屋」は現在もさいたま市浦和区に本店を置き、県下に幾つも支店を展開する、明治9(1876)年11月創業の老舗である由。神奈川県に於ける有隣堂のようなものか。◆

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