第3558日目 〈『万葉集』へのアプローチ──マロニエ通りの学校に於ける個人史の”if”。〉3/3 [日々の思い・独り言]

 斯様にマロニエ通りの学校で『万葉集』を中心に講じた加藤守雄だが、その正式な後任が阿部先生だった。そうしてその点にこそ、阿部先生に講義で『万葉集』を取りあげることを考えさせ、断念させた理由が隠されているのではないか。
 阿部先生は『万葉集』を文学として読もうとしていた。あくまで「鑑賞」を旨とする講義を考えていた。即ち、前任者加藤とは全く別の──或る意味では本来の──アプローチを採るつもりだった。『古事記』の講義でもそうだったが、先生は奈良朝文学に塗りこめられた当時の日本人の習俗に、あまり研究者的意味での関心はお持ちでなかった様子だ。必要なレヴェルで民俗学の領域に属する内容を説明することはあるが、それを出発点に柳田國男や宮本常一、芳賀日出男、折口などなど先人の如くそのルーツや類縁を辿ったお話をされることはなかった、と記憶する。先人、には当然加藤も含まれる。
 マロニエ通りの学校の国文科は、わたくしが在籍していた時期も、既に池田・加藤は鬼籍に入り、折口の学風を伝えるのは岩松先生お1人であったとはいえ、「リトル慶應」の俗称が暗に示す通り、たとえば『万葉集』を語るに際しても民俗学の要素を削ぎ落とした講義を実施するには、それを両手で歓迎しない空気は、たしかに存在していた。空気を読んだ、なんて下世話な解釈に落ち着く気はないが、阿部先生をして『万葉集』講義を断念させた理由の一斑にはなるように思われる。──自由を校風とし、戦時中も当局に従う素振りを見せなかったあのマロニエ通りの学校にも、目に見えぬ学閥の力学が働いていたように感じられて、寒々しい気持を抱いたのは否定できぬ。
 ──結局阿部先生の、在学中だた1年だけ開かれた奈良朝文学の講義は、『古事記』となった。テキストは岩波書店の日本古典文学大系。講義は各項1人ずつ学生を(あらかじめ)指名し、訓読文を読ませ、現代語訳を披露させ、それについて先生がコメントを付す、というまさに演習形式で行われた。わたくしはたいてい前の方の席にいたのでよく目にできたのだが、『古事記』を講義しているときの先生は本当に愉しそうだった。
 最後の1年間で先生の講義を履修する幸運を得たわたくしは、近世期国学への関心からスライドして『古事記』を卒業論文のテーマとし、卒論指導という名目で毎水曜日昼頃まで先生の謦咳に接することができた。年度末には日帰りの鎌倉旅行へお誘いして、実現したことは、既に述べた通りである。
 一寸話が横道に逸れるが、ご勘弁を。卒論指導の折、なにかの拍子に筑摩書房から出ていた『明治文学全集』の話になり、それを索引だけ残して処分されたことが何10年も経ったいまでも、職員室の光景も含めてまざまざと甦ってくることである。わたくしは阿部先生の来し方についてなにも聞くことはなかったが、それを全巻所持していたというぐらいなのでもしかすると、先生の本来の専門は近代文学であったかもしれない、といまでは思う。

 さて、やっと本題。──学生時代、もし阿部先生から『万葉集』を教わっていたら、わたくしはそれを好きになっていたか?
 早々に結論;かなりの留保附きではあるが、たぶん好きになっていただろう。すくなくとも現在のように、相性が悪い、とまでは思わなかったのではないか。八代集を通読した如く、『万葉集』全巻も最初から最後まで読んで、己の肥やしとしていたのではないかな、と考える。
 が、そうはならなかった。個人史とはいえ所詮は ”if” である。〈必然〉によって歴史は定まる。だから、現在(いま)がある。『恋愛名歌集』を読んで、『万葉集』との相性がすこしでも良くなることを願う現在はなかった、ということだ。──どっちがいい?◆

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