第3580日目 〈「ヤコブの手紙」第3章に自分への戒めの言葉を読む。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日はクリスマス・イヴということもあって、久しぶりに聖書を話題にしました。続きを企むわけではありませんが今日は“当日”でもありますので、再た聖書のお話をすることに致します。同じく新約聖書から、〈公同書簡〉の1つ、「ヤコブの手紙」を。
 ヤコブはイエスの縁者、兄弟で、原始キリスト教会の指導者。62年にエルサレムの城壁から突き落とされて殉教した、と伝えられる人です。そのヤコブが、「離散している十二部族の人たち」(ヤコ1:1)へ宛てて書いた、とされるのが、「ヤコブの手紙」であります。「とされる」というのは聖書によくあることで、ヤコブに仮託して後代のキリスト者が書いた手紙、という意味で、執筆年代は80年頃ともされます。実際の執筆者が誰であるか、ここで詮索したり想像したりはしません。
 しかし、手紙の宛先である「離散している十二部族の人たち」とは、誰をいうのか? フランシスコ会訳聖書の傍註に拠れば、「キリスト教に改宗したユダヤ人、あるいは、離散している神の民である新イスラエル、すなわち、キリスト教会全体を指す」という。これは2013年02月にサン パウロから発行された旧約聖書との合冊版に付された傍註の説明ですが、ちょっと分かりにくい。
 わたくしが初めて買った新約聖書がフランシスコ会訳で馴染みあり新共同訳に次いで勝手が良いためここで用いているのですが、1984年10月改訂初版フランシスコ会訳新約聖書の「ヤコブの手紙」解説ではこう書かれています。曰く、「単純にユダヤ人であれ、異邦人であれ、ローマ帝国中に散らばっている神のためを意味すると解するのが妥当である」と。こちらの解説の方が、すっきりとしていて、分かりやすく捉えられるのではないでしょうか。
 寝しなに新約聖書を読んでいて、「ヤコブの手紙」を開くことも間々あるのですが、ちかごろやたらと共鳴する箇所がこの第3章にあります。昨日同様、お話しを進める前に、新共同訳とフランシスコ会訳から当該章節となるヤコ3:13-18を下に引きましょう。曰く、──

 (新共同訳)
 13) あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。
 14) しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。15) そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。16) ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。
 17) 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。
 18) 義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。

 (フランシスコ会訳)
 13) あなたがたのうちに、知恵があり物分かりのよい人がいますか。その人は、知恵にかなった柔和な行いを、立派な生活によって示しなさい。
 14) もしあなた方が、心に激しい妬みや利己心を抱いているのなら、驕り高ぶり、真理に背いて偽るのをやめなさい。15) このような知恵は、上から下ってくるものではなく、地上的なもの、この世の命に生きるもの、悪魔的なものです。16) 妬みと利己心のある所には、秩序の乱れとあらゆる悪行があります。
 17) 上からの知恵はまず第一に清く、次に平和で、寛容で、温順なものであり、憐れみと善い実に満ち、偏見はなく、偽りのないものです。
 18) 義の実を結ぶ種は、平和をもたらす人によって、平和のうちに蒔かれます。


──と。
 いちばんわたくしの心を捕らえて考えさせてしまうのは、14節と16節であります。字面の通りにしか受け取っていないせいもありますが、わたくし自身への戒めの言葉であるように捉えてしまうのです。まるでそれは、罪状記録のようにも思えてしまい……。
 わたくしはそんなに知恵ある者でもなければ、それゆゑに知恵ある者に相応しい柔和な行いを、立派な生き方をすることで示すことも出来ない。内心はいつも焦りと疑心と妬みと利己心と私欲に塗れている。そんなわたくしにこの一節は氷のように冷たく、よく研がれた剣の切っ先を肌に立てられたような痛みを感じさせる。
 「ねたみや利己心のあるところ/妬みと利己心のある所」とは言葉を補えば、「妬みと利己心を持つ人のいる所には」となろう。つまり、──わたくしの行く所、居る所常に禍いあり、という……。イエスの言葉、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(マタ10:34)を思い出させるけれど、意味するところはまったく異なる。
 では、柔和な行いを立派な生き方で示すことができるよう知恵を得て、かつ物分かりのよい人間となるために果たしてどうすればいいか。わたくしのような非キリスト者の場合は? 信仰なき者に「上から出た知恵」は与えられまいから。──聖書……ヤコブ(に仮託した真の作者)はなにも答えてくれない。当たり前だ、巻を開いたら望む言葉が提示されている書物ではないのだ。
 この答えを求めて、その手掛かりを探して、しばらく彼方此方の書物をひもとく日々となりそうである。◆

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