第3582日目 〈誤ちを正す。〉 [日々の思い・独り言]

 表題、過ちを正す、とは、どうやらこれまで長いこと勘違いしていた記憶を正しくする、の謂である。いうなれば、誰も待望していない、わたくしも想像していなかった第3577日目の姉妹篇であり、第3576日目から出典に疑いありそれゆえ論旨不明のため最終的に削除したる部分の、発展的補足である。
 チューニングの話なのだ。
 『近世日本国民史』のどの巻を繙いてもツマラヌ本を読まされている意識は微塵もない、たとい斯様に思う一巻に当たったとしても本の内容と自分の間でチューニングが済めばいつしか面白く、夢中になって読んでしまうのだろう──なる意味の文章を一度は書いたが、前述の理由で最終的にチューニングの箇所はバッサリと、削り落としたのである。
 ──と、ここからが表題につながる本題。
 当該箇所を削る前に帰宅後、チューニングの話を確かめんと山村修『増補 遅読のすすめ』(ちくま文庫 2011/10)を読んでみた。なんと、山村が用いているのは「ウォーミング・アップ」という単語で、しかも自分の文章ではなく、遠藤隆吉『読書法』の一節を挙げて田中菊雄が自著『現代読書法』で書いた文章を山村が引用して一言、二言加えるというのが実際なのだ(P57)。
 いやぁ、これには参りました。山村自身の文章という思い込み、「チューニング」という表現を使っていたという思い込み。二重の思い込みに何年も囚われていた。哀れ? 否、滑稽だ。
 ならば肝心の、読書を始めるにあたってはチューニングが必要だ、という趣旨の文章を、わたくしはいったいどこで読んだのか、その文章の作者は誰だったのか。──当然湧いて出る疑問だろう。実際この一週間、終始とはいわぬまでも会社からの帰り道や1日のうち何度かは必ず訪れる呆とした瞬間、浮かび来たって離れぬものとなった。チューニング。それは誰の、なんという文章で読んだのか。誤った形ながら斯くも記憶にこびりついているのだから、何度となく読み返した本なのだろうが……。
 そうして今日(昨日ですか)である。12月26日夕刻。尾籠な話で恐縮だが、憚りの供になんの気なく岡崎武志『読書の腕前』(光文社新書 2007/03)を選んだ。あちこちパラパラ、ページを繰って目を通していた。あまり長時間いるような場所でもないので、用を済ませたらサッサと出るつもりだった──のだがその矢先、目撃してしまったのである。過ちを正すその回答を。
 つまり、こういうことだ。本と読者の間にはチューニング(の時間)が必要だ、と書いたのは、山村修ではなく岡崎武志だった。その文章は『遅読のすすめ』ではなく『読書の腕前』にあった。こちらも何度となく読み返した本だから、いつしかこうした錯誤も発生してしまったようである。言い訳をすれば岡崎のこの本、ほぼ3年ぶりの再読だった……。
 それにしても面白いのは山村と岡崎が、他の著者の本から引用してウォーミング・アップとチューニングを話題にしたことだ。岡崎は、小説家保坂和志の文章を引いた。孫引きだが、その保坂の文章を紹介しよう。新潮文学賞選考委員を務めた際の言葉だそうである。曰く、──

 はじめての小説に出会うと、読み手をチューニングする必要がある。そういう小説を読みたい。評論ならチューニングの痕跡の伝わるものを読みたい。(P59)

──と。
 続けて岡崎の文章から、曰く、──

 ここで保坂が言う「チューニング」とは、その作者が築き上げた小説世界のなかに、読み手がうまく波長を合わせながら踏み込み、同調していくということだ。……チューニングは一種の技術だから、慣れが必要だ。(同)

──と。
 それは小説に限らず、どんなジャンルの、どんな本でも同じだ。然り、所要時間の長短はともかくとしても、チューニングを要さぬ「はじめての」読書なぞ無いのである。
 ここで話が振り出しに戻るのだけれど、『近世日本国民史』もさしたる興味のない時代であろうと「うまく波長を合わせながら踏み込み、同調していく」労を厭いさえしなければ、──関心の濃淡は最早どうこうすることはできないにしても──、相応に面白く読めるんじゃアあるまいか、といいたいのである。
 「引用された史料にどんなことが書いてあるか、分かんねーんだよ!」という、この手の本を読むとき必ず付き纏う問題はスルーしたい。なぜなら、大丈夫、何遍か読み返せばなにが書いてあるか、なんとなく分かってくるから。数をこなせば自然と馴れて抵抗がなくなり、史料の頻出ワードの読み方も解し方も、なんとなく分かってくるから。心配めされるな、読者諸氏。何事もなんとかなるさ。
 ──以上が、数年にわたる勘違いの修正報告であり、同時に第3576日目削除部分の発展的補足となる。『近世日本国民史』も聖書も『薔薇の名前』も、読み難きてふ理由の幾許かは、不遜を承知で申しあげれば〈調律〉の成否に帰すとわたくしには思われる。どうだろうか?
 最後に余談。それにしても講談社学術文庫には頑張ってもらいたかった、『近世日本国民史』全100巻の文庫化を。経営を危うくする夢物語、無理難題であることは承知しながらも。◆

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