第3590日目 〈分かち合う、ということ。分福、ということ。〉 [日々の思い・独り言]

 今年も箱根駅伝、往路と復路の沿道観衆に映りこんで良い気分でいたら、その夜、階段の踊り場で壁に激突して眼鏡を壊したみくらさんさんかです。Oh,good grief……. 随分と盛大な音がしたそうで、寝ていた家族が起き出し、ぐっすり眠っていた娘も途端に大泣きし始めた程。
 いやぁ、元日からなにをやっているんだっていうね……今年は気をつけなくっちゃ。
 さて、気を取り直して今日のお話だが、……



 寝る前に読んでいる本からの一節です。曰く、──

 マザー・テレサは、インドの街の貧しい民衆の中でわずかなお米をいただいて、うれしかったので貧しいヒンズー教徒の母親にそれを半分分け与えた。するとその女性も喜んだが、またその半分をイスラム教徒の貧しい母親に分けに行ったのです。その時マザーは「ここに神の国がある」と言いました。キリスト教教育の目標、イエス・キリストの福音の目的が、ここにあるのではないでしょうか。いと小さきものとの共生の視点、エリヤのまなざしです。神から人間に対する言葉を預かるエリヤ。悲しむ人間の側に立ち神に向かって祈るエリヤ。その姿勢から学ぶのです。(関田寛雄『目はかすまず気力は失せず』P29 新教出版社 2021/07 ※1)

──と。エリヤは旧約聖書に登場する預言者で、北王国イスラエルの最悪の王アハブに立ち向かった人です。
 マザー・テレサの与えたお米を、更に他の人に分かつ行為。共観福音書に載るイエスのパンと魚の奇蹟に端を発したエピソードなれどそれと較べて、ずっとわれらの心へ響いてくるエピソードではないでしょうか。
 「貧すれば鈍す」という諺があります。物質的に恵まれていても自分に与えられたものを独占して、他に分け与えることを惜しんで守銭奴の如くになれば、心はどんどん貧しくなるばかりでやがては人品を貶め、元からある筈の善良なる心や「善いことをしよう」という気持は蝕まれ、孤独と貧窮をのみ友として最期を迎える。
 わたくしは「貧すれば鈍す」をこのように解釈いたします。それはいい換えれば、自分で自分の世界を窮屈にし、誰からも顧みられない性格に作りかえられてゆく過程、もしくはその結果、なのかもしれません。
 「”分かち合う”ことができない」とは、「孤独」という言葉に付された様々な意味の1つ、否、窮極的な語義である、とも申せましょうか。いろいろ思いを巡らせていると、そんな考えに帰結するのであります。キリスト教徒がヒンズー教徒に、ヒンズー教徒がイスラム教徒に、お米を分け与えた(分け合った)という点に、その一端は窺えるように思うからです。
 この「分かち合い」、「分かち合う」こと。これは幸田露伴の説く「分福」の思想につながる教えでもあるように思えます。露伴翁、「分福」を語って曰く、──

 すべて自己の享受し得る幸福の幾分を割いて、これを他人に頒ち与え、他人をして自己と同様の幸福をば、少分にもせよ享受するを得せしむるのは分福というのである。(『努力論』P63-4 角川ソフィア文庫 2019/07)

──と(※2)。
 けっして牽強付会ではありますまい。分福とは、前述したようにキリスト教社会でいう「分かち合う」の東洋風な表現であり、意味するところもその目的も同じです。
 これのできる人が果たしてどれだけあるだろうか。幸福のお裾分けを実践して独占をしない人が、いったいどれだけあるだろう。咨、サウイウ人ニわたくしハナリタイ。◆


※1 余談になるが著者は昨2022年12月14日、94歳で逝去された由。本稿の筆を執るまでまったく知らなかった。『目はかすまず気力は失せず』は昨年の仲秋にみなとみらいの丸善で偶然求めた1冊であるが、元日になるまでずっと未読のままで過ごした。いまWeb上の訃報に接していわれなく嗟嘆している。
※2 事の序に、露伴の「幸福三説」で「分福」以外の「福」について、簡単に申し上げます。「惜福」──福を惜しむことも重要だが、惜しむとはケチになることでは無い。与えられたものの価値を知り、大切さを知って忘れず、むやみと浪費するのを避けよ、ということです。「植福」とは自分が持つ福を次の世代のために活かす術を知れ、然るに弛まずそれを実行せよ、というのです。□

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