第3613日目 〈海より深い母の愛情、鉱石より強い父の愛情にくるまれて生きてきたのに、どこでぼくの根太は腐って傾いたのか?〉 [日々の思い・独り言]

 こんなことがあってから、一切無になって身の回り、その諸事について思いを致し、行く末に考えをこしらえました。外的要因によって一旦、心のなかを空っぽにして、自分自身を見通すことが、必要だったようです。でも、もっと別の外的要因だったら良かったのに。
 いま、わたくしの心を占めるのは、「正しく生きること」、この一点に尽きています。
 正しく生きること──父がそうだったように。母がそうだったように。心正しく、だれにも等しく、一瞬の情や損得に流されることなく、慎ましくあり、礼を尽くし、そうして「徳」を積めるように。「天に徳を積め」と聖書にあるが、それは無縁の人でも心掛けてよい言葉。正しく生きること──そのために、すべてを失ってでも真実を告白するのが必要。
 結ばれた〈縁〉に感謝し、大切にし、自ら損なう愚を犯さぬこと──子どもは親の背中を見て育つ、といいます。子を見れば親がどう育てたか、なんとなく推察できる。親なる人の人間性が或る程度推察できる。そんな意味に捉えております。
 どれだけ生活が乱れていても、性格に問題があっても、その心根の素直さや正直さ、といったいわゆる<人間の芯の部分>が親から引き継がれたものなのは、疑うべくもありませんでしょう。それゆえにこそ、どんな人に対しても、偏見や誤解、苦手意識等々に基づいて敬なく遠ざけたり、陰で誹謗の対象に祭りあげることは、厳に慎みたいですね。
 ひるがえって、自分はどうか? 親の背中を見てあのように正しく慈しみに満ちた生き方をしたいと願いつつも、果たしてその愛情を裏切ることなく生きてこられたのか? 正直なところ、「否」といわざるを得ないのです。海より深い母の愛情、鉱石より強い父の愛情。それに包まれて生きてきたはずなのに、どこでぼくの根太は腐って傾いてしまったのだろう?
 他人が見る自分は或る程度まで偏見と誤解に基づいてその人のなかで再創造された(その人にとって都合の良い解釈に収まる)一面に過ぎず、自分が見る自分はかなりの部分で自分を正しく見積もっていない。見誤り、過小評価もしくは過大評価をしている。要するに、自分がわかっていない。──汝、自身を知れ。これは人生のどんな局面にあっても、何歳になろうとも、つきまとう言葉のようであります。◆

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