第3639日目 〈萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読みました。〉07/12 [日々の思い・独り言]

目次
零、朔太郎の事、『恋愛名歌集』を読むに至った事、及び本稿凡例のような物。←FINISHED!
一、朔太郎が『恋愛名歌集』「序言」で主張すること。←FINISHED!
二、朔太郎、「解題一般」にて本書の意図を語る。←FINISHED!
三、朔太郎の『万葉集』讃美は、時代のせいもあるか?(総論「『万葉集』について)←FINISHED!
四、朔太郎、平安朝歌風を分析して曰く。(総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」)←FINISHED!
五、朔太郎、『古今集』をくさす。(総論「『古今集』について」)←FINISHED!
六、朔太郎、六代集を評す。(総論「六代集と歌道盛衰史概観」)←NOW!
七、朔太郎は『新古今集』を評価する。(総論「『新古今集』について)
八、恋歌よりも、旅の歌と海の歌?(万葉集)
九、朔太郎『古今集』選歌に触れてのわが所感(古今集)
十、総じて朔太郎は「六代集」を評価する者に非ず。(六代歌集)
十一、朔太郎の定家評に、いまの自分は深く首肯する。(新古今集)


 六、朔太郎、六代集を評す。(総論「六代集と歌道盛衰史概観」)
 『万葉集』が日本和歌第一の黄金期であり、『新古今集』がその第二、中近世を経て近代の〈いま〉がその第三の黄金期という。
 『万葉集』から『古今集』の間には、嵯峨天皇の御代に頂点を迎える国風暗黒時代/漢風(唐風)謳歌時代が横たわる。漢文で文書が記されて漢詩が貴族の嗜みとなった時代だった。文学史ではこの時代に『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』てふ3つの勅撰漢詩集が編纂されている。『古今集』はこうした時代への反駁のようにして生まれ来たった、史上初の勅撰和歌集だった。
 朔太郎にいわせれば、『万葉集』と『新古今集』という2つの峰に挟まって谷間の低地がある。即ち『後撰和歌集』から『千載和歌集』へ至る流れは、谷の最低値(=『古今集』)から2つ目の峰の最後部(=『新古今集』)を目指す傾斜面(部)である、と説く。朔太郎のこの説明はわかりやすい。しかも、六代集の出来は尻上がりによくなって『新古今集』へ至る云々。納得だ。
 『金葉集』を考える際、朔太郎の脳裏にあったのは、二度本だったか或いは三奏本か。調べてわかることだろうか。また、個人的には六代集のうち『後撰集』が最も低いとされて救済措置の欠片もないのが哀しい。なぜならわたくし、『後撰和歌集』が好きなのだ。八代集で好きな勅撰集を3つ挙げろ、と命じられたら迷うことなく、『後撰集』、『拾遺集』、三奏本『金葉集』を選ぶ者である。
 『古今集』の時代になると〈題詠〉や〈歌合〉が行われるようになった。それは自ずと歌人たちに技術の深化と音律の洗練を求める結果にもなる。これを踏まえて朔太郎は、技巧と想像と音楽が極言まで完成されて相互に破綻も瑕疵も軋みもなく調和した人工美の極北たる『新古今集』を、和歌史上第2の峰というたのだろう。『万葉集』の頃より見れば夢想だにできなかった未来の作物であり、『古今集』の頃より見れば驚愕の溜め息しか出ぬような作物だったのであろう、『新古今集』とは。
 朔太郎の六代集の全体評は、個々の歌集の良し悪しというよりも『古今集』と『新古今集』をつなぐブリッジの役割を担い、『新古今集』誕生(登場)の地均しをした、という面での評価に終始する。文学史の一場面の一現象としての評価というてよいか。曰く、「後撰以下の六代歌集は、個々の単本として欠陥の多い歌集である。かつ選集として時代を劃するほどの特色もなく、到底単独にして注目すべき価値を持たない」(P212)と。
 注意点として朔太郎が最後に述べるのは、女流歌人の存在だ。この六代集の時代に特色ある才媛歌人が多く出た、即ち、相模、和泉式部、馬内侍、赤染衛門などを暫時輩出した云々。──わたくしの好きな斎宮女御や藤原道綱母も、この時代の閨秀歌人である。□

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