第0132日目 〈プロヴィデンスの郷紳━━H.P.ラヴクラフト小伝〉 [日々の思い・独り言]

 小伝
 20世紀前半のアメリカ文学の作家の中で、ヘミングウェイやスタインベックらと同じくらいに後世への決定的影響力を持った一人、侵略と殺戮に彩られたアメリカ合衆国建国の歴史をメタファーで語った、もう一つの<ロスト・ジェネレーション>の旗手、それが即ち、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトである。
 およそ彼ほど、あの時代に生きていたことを疑いたくなる作家は、他にない。果たして誰が、ラヴクラフトがフィッツジェラルドやマーガレット・ミッチェル、アニタ・ルースやヴァン・ベクテンらと同じ時代に在って筆を振るっていたことを、即座に信じられようか。しかし、間違いなく彼もまた、ジャズ・エイジと大恐慌の時代、禁酒法とギャングの時代、あの古き良き時代、<オンリー・イエスタデイ>を体現した作家だったのである。

 独立13州の一つ、ロード・アイランド州の州都、「摂理」という意味を持つ街、最晩年のエドガー・アラン・ポーが尾羽打ち枯らし、幼なじみの未亡人セアラ・ヘレン・ホイットマンに再会、婚約までこぎつけ、逝った街――プロヴィデンスで、H.P.ラヴクラフトは産ぶ声を上げた。1890年8月20日のことである。父ウィンフィールド・スコット・ラヴクラフトは地方回りのセールスマン、母サラ・スーザン・フィリップスは富裕な実業家の娘であった。
 幼時より病弱な上、母親の強い過保護の下で育ったラヴクラフトは、故郷で同年代の友人を持つことは遂になかった。学校も休みがちであったし、当然の帰結と言うべきか、高校は中退。アイビーリーグの一校にして地元の名門校、ブラウン大学への進学はかなわなかったが、正規の大学教育で得られる以上の知識を、広範な読書によって獲得する。幸いなるかな、独学にありがちな知識の偏向と中途半端の罠に、彼は陥ることはなかった。

 幾つかの習作をものした十代の終わり、創作の限界を感じて二編を残して他を焼却、以後、彼の精力は1917年までの間、小説に向かうことはなく、もっぱら詩とエッセイ、天文学についての小文へ集中された。ひょんなことからアマチュア・ジャーナリズムの世界に身を投じたラヴクラフト。彼はそこで生涯の友人、サミュエル・ラヴマンと知己になり、W.ポール・クックとの面識を得た。殊、クックとの邂逅の意味は大きい。クックなくして、おそらく後世に言うラヴクラフト的世界が構築されることはなかっただろうから。この友人の奨めと助言を容れ、いよいよラヴクラフトは小説の執筆を再開する――『ダゴン』Dagon(1917)、『奥津城』The Tomb(1917) を嚆矢として堰を切った彼の筆は、迷い、悩むことはあっても決して停滞することなく、今日の我々が知るごとき魑魅魍魎の跳梁跋扈し、人智を遙かに超越した世界での物語が、ゆっくりと書き紡がれてゆく。死後、それらは弟子オーガスト・ダーレスによって<クトゥルー神話>の名の下に統合、大系化されていった。
 少年期に父を(1898)、青年期に母を(1921)病で失った彼は、身の回りの世話を二人の叔母に委ね、アマチュア・ジャーナリズムでの活動に一層の力を入れ、創作に没頭した。ソニア・グリーンという作家志望の女性と出逢ったのは、そんな頃であった。軈て、彼らは結婚する(周囲の人々は皆、一様に首を傾げ、将来を懸念したという)。ラヴクラフトは新居を構えるため、嫌悪してやまぬニューヨークへ上京、だが蜜月はわづかの内に幕を降ろし、多分に経済的事情を主な理由として別居生活を続け。魔都でのあてもなき日々……憂いと絶望の溜息を友とし、夜の闇への憧れを募らせつつ、人目を避けるように街を彷徨い、一刻の安らぎを求めてやまなかったラヴクラフト。年齢若き友人フランク・ベルナップ・ロングのはからいで届けられた故郷の叔母からの便りに歓喜し、ニューヨークへ別れを告げ、<プロヴィデンスの郷紳(カントリー・ジェントルマン)>は一路、あの母なる街へ――。結婚生活は事実上、この瞬間に終止符が打たれた、と言うてよい。尤も、法的な離婚の成立にはいま少しの時間が必要だったけれども。

 死までの日々、彼は故郷での静かな生活を満喫して過ごした。貧しくも充足した日々……愛してやまぬ古い町並みが取り壊され、ときおり小説の不採用通知が届けられるのが、玉に瑕だが。ラヴクラフトは筆まめな性格の主だったので、多くの人々――殊に同業の作家たちと、その予備軍――と膨大な量の手紙を交わした。文通に費やされる時間が、創作のためのそれを削いだ、とはよく言われることだが、ラヴクラフトにはそうした意識は微塵もなかった、と断言していいだろう。彼にはなによりもそれが大切だったのである。盲目に等しい世間への眼を、ほんの僅かながらも開き続けてありたいために。プロヴィデンスに住まう叔母や知人の誰よりも近くて親しみのある、遠くにある仲間たちとの絆を保ち、孤独からほんのわづかながらも逃れてありたいが故に。ラヴクラフトにとって友人との文通とは即ち、生命線に他ならなかったのだ。
 日一日、時々刻々と目減りしてゆくラヴクラフト家の貯金では、赤貧すれすれの生活を維持してゆくのがやっとであった。ラヴクラフトの原稿料や他人の原稿の添削料が収入の大半であり、しかも定期的なものではなく、叔母たちの収入も果たしてどれだけの足しになっただろうか。にも関わらず、彼は生活を楽しむ術を心得ていた――その乏しい財産をやりくりして、年に一回は大小の旅行をしたほどの人なのだから。当時のアメリカの交通網の貧弱さを思えば、これはまさに驚嘆に値しよう。
 故郷への帰還以後、ラヴクラフトはいまや古典の位置すら確立した、珠玉とも言うべき物語を書いた。『クトゥルーの呼び声』The Call of Cthulhu(1926)や『異次元の色彩』The Colour out of Space(1927)、『ダンウィッチの怪』The Dunwich Horror(1928)、『闇に囁く者』The Whisperer in Darkness(1930)、『狂気の山脈にて』At the Mountains of Madness(1931)、『インスマスの影』The Shadow over Insmouth(1931 猶、この小説の自費出版が生前、唯一の単行本となった。挿し絵はフランク・ユトパテル)……まさしく、<傑作の森>と称すよりない時期を経て、余りにも早過ぎる最晩年の名作、『超時間の影』The Shadow out of Time(1934-35)と『闇の跳梁者』The Haunter of the Dark(1935)が書かれる。

 1923年3月に創刊された怪奇小説専門のパルプ小説誌ウィアード・テイルズ誌の看板作家から、SF雑誌アスタウンディング・ストーリーズ誌やアメージング・ストーリーズ誌にまでその発表舞台を広げ、より多くの読者を獲得し、いよいよ作家としての円熟期を迎えようとしていた矢先、長きに渡る食事の不摂生と健康的とは言い難い生活が祟ったのだろう、生来の虚弱体質から病に対する免疫はいつしか失われてしまっており、その結果、彼は死病に取り憑かれ、余命幾ばくもない人となってしまった。
 それなのに、と言うべきか、それだからこそ、と言うべきか、貧なるが故に医を退け、筆を執ることも間遠になってゆき、1937年3月10日、ジェイン・ブラウン記念病院へ入院。しかし、そこでの生活は意外に早く終わる。3月15日未明、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトは逝去、死因は腸癌と慢性腎炎(所謂ブライト病)。享年46。
 プロヴィデンスに生まれ、プロヴィデンスに死んだラヴクラフトは当初、母方フィリップス家の墓所に埋葬されたが、1977年、単独の墓石が熱心なファンたちによって建立、現在に至っている。その墓碑に曰く、「私はプロヴィデンスである」 I AM PROVIDENCEと。

 いま、彼の魂は時間の波に往時の面影を失いつつある故郷の大地の下で、永遠の眠りに就いている。◆
(無断使用、改竄、引用、借用その他の行為の一切を禁ず)

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。