第0239日目 〈士師記第17章:〈ダン族の移動〉1/2〉 [士師記]

 士師記第17章です。
 【「そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた。」(士17:6)これが士師記の通奏低音であり、各士師登場の下地であり、彼らの物語の前提となっている。
 出エジプトと荒れ野彷徨、カナン侵攻を経験した世代が、歴史の表舞台から退場したことでイスラエルは大きく混乱した。そして人心も荒んだ。
 換言すれば、預言者ヨシュアの死がもたらした影響の大きさが窺え、ヨシュアと、共にイスラエルを指導した長老たちがどれだけ民の支柱となっていたかが推察できる。彼らの指導力と統率力が絶大であったか、推して知るべし、であろう。
 それが、士師記の時代を生きるイスラエルの民の姿であり、王(指導者・統率者)不在の時代に人々が陥った神、主の罠であった。】

 士17:1-13〈ダン族の移動〉1/2
 エフライムの山地に住む男ミカの家には彫像と鋳像があり、別に神殿を持ちエフォド(神像)とテラフィム(やや小振りの神像)を造り、息子の一人の手を満たして祭司としていた(士17:1-5)。
 まさしく民は自分の正しいと思うことを行っていたのである。
 さて。一人のレビ人がいた。ユダ族の若者で、ユダのベツレヘムにいたがそこをあとにして違う寄留地を求めて彷徨っていたところ、ミカの家に行き当たった。若者がこれまでの経緯を説明すると、ミカは、ならばわたしの家に住むとよい、といった。祭司となってほしい、銀十シェケルと衣服一式と食糧を与えるから、と。
 若者は諾ってミカの家に寄留し、祭司となった。
 「ミカは、『レビ人がわたしの家の祭司になったのだから、いまや主がわたしを幸せにしてくださることがわかった』と言った。」(士17:13)

 如何でしょう、人心の乱れここに至れり、との感がしませんか。
 これまでわたくしたちは旧約聖書をゆっくり読んできました。ミカの行いがどれだけ主の心に背き、シナイ山で交わされて締結された、その後も折に触れて交わされ締結されてきた種々の契約に抵触しているか、逐一でなくとも思い出されることでしょう。
 即ちこれは、当時既に契約の内容が人々の心から薄れ、主との契約によって活かされているという意識が希薄になってきていたのだ、と、さんさんかは思うところであります。



 自分の心の声に従うばかりが良策ではありません。
 人生を左右する出来事であればある程、先の先まで考え尽くして良い面悪い面、人間関係にまで思いを巡らせて、徹底的に検討を加えてしまうべきであります。
 ときには自分の願いを封じこめて未来を選択する意志が必要なのです。◆

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