第0303日目 〈マタイ研究会管弦楽団・合唱団の思い出:バッハ《マタイ受難曲》その2〉 [日々の思い・独り言]

 20世紀最後の年のお話をしようと思う。あなたは何歳だっただろうか? さんさんかはこの年、大台に乗りました。まぁ、それはさておき。

 <音楽の父>ヨハン・セバスティアン・バッハ没して250年を経た西暦2000年、メモリアル・イヤーと銘打って多くのバッハ・アルバムがリリースされたのを、いまでも覚えている。
 大海(メール)におじけづき、小川(バッハ)で満足していたわたくしにとって、この状況は慶事であり、困惑をも招いた。さりとて吉報もあった。逡巡していた大バッハの高峰へ登攀する本格的な第一歩になり得よう吉報━━それは国内のレコード会社各社が自社が所有する音源を繰り出して、怒濤の如きリリース攻勢をかけてきたことだった。
 たとえばワーナー傘下のエラート・レーベルからはマリ・クレール・アランのオルガン全集が、ドイツ・シャルプラッテン(当時はまだ健在だった!!)から旧東独の演奏家たちの名演が、いずれも廉価版で発売された。また、ユニバーサル・ミュージックからも<バッハ名盤1200>と題されたシリーズが発売された。他、輸入盤で目に付いた動きといえば、NAXOSから新しく録音されたバッハ管弦楽作品が日本語帯附きで分売され始め(しかも全て廉価盤だ!)、ヘンスラーからリリングのカンタータ全集が市場へ出現したことか。
 わたくし自身? これまで以上に中古レコード店でバッハのアルバムを漁ることが多くなった、と当時を倩回想するにとどめよう。――取り敢えず、以前よりも容易く、大バッハの全貌に接せられるようになったのだ。これが弾みとなったか、バッハのLPやCD、DVDもずいぶんと多くなり部屋の片隅に溜まってしまっているけれど、どういうものかふしぎと処分する気になれずにいる。これも良きことかな、と笑って済ませようか。

 クラシック音楽を聴き始めてずいぶんになるが、バッハの音楽が抵抗なく自分の中に入ってくるようになったのは、本当に最近のことだ。きっかけはあまりに哀しいことだった、皮肉のように。傷つかなければバッハの音楽に心を開けなかったなんて――。だが、そんなものだろう、人生とは、然様、そんなものだ。
 だが、バッハの音楽へ直に触れるそもそもの初めは、若干時間的に前後する。或る年の11月、と或るオーケストラと合唱団によるバロック音楽ばかりで構成されたクリスマス・コンサートが、それ。会場は、上野の石橋メモリアル・ホール。感想? ……感動した!
 退屈と思い忌避していたバロック音楽のすばらしさを実感したのだ。翌年の春、この団体の定期公演でわたくしは初めて、バッハ音楽の最高峰《マタイ受難曲》を聴き、涙を流した。それほどに真摯な演奏だったのである。その団体の名称は、マタイ研究会合唱団・管弦楽団。主催者でもある音楽監督はバリトン歌手でもある井形景紀(シューマンの歌曲を録音したLPがある)。
 研究会は《マタイ受難曲》の理想的上演を目指して設立(1982年01月)された、合唱団とオーケストラを擁する珍しい団体であった。彼らはバッハのこの受難曲を文字通り、「愛していた」。その愛は個々のメンバーのつながりを深め、音楽への純粋な想いに彩られており。
 単なるコンサート・レパートリーの一に貶めるような従来の演奏団体と異なる、たった一つの作品のために結成されたアンサンブルの奏でる音楽だからこそ、却って心のなかにいつまでも残る場合だってあるだろう。わたくしにとってマタイ研究会による《マタイ受難曲》とは、まさしくそうした〈稀有〉なケースなのである。
 16年間の活動期間を「長かった」というべきなのか、それとも「短かった」というべきか、簡単に判断は下せない。しかし、最後の3年ばかりの活動に、一聴衆として触れ得た者としては、もっともっと彼らの演奏を聴きたかった。井形さんの独唱を、一度も実際に聴くことはなかったのだ!
 いまでも偶さか思うのはバッハ没後250年の2000年に、マタイ研究会管弦楽団・合唱団はどのような《マタイ受難曲》を聴かせてくれただろうか、ということだ。《マタイ受難曲》ばかりではない。彼らのレパートリーのもう一つの柱、『ミサ曲ロ短調』についても同じように嘆くよりないのだ。機会はありながら、遂にこの曲を聴くことが適わなかったのは、つくづく悔いの残ることである。

 1997年02月26日に不帰の人となった井形さんの追悼公演が、同年09月27日、ディートハルト・ヘルマンの指揮で行われた。曲目はもちろん、《マタイ受難曲》。
 拍手なしで始まり、拍手なしで終わったこのときの演奏はあまりに厳かで、あまりに悲痛なものだった。そして、どこまでも天へのぼってゆくような澄み渡った魅力を持っていた。斯くも人を想う心にあふれた《マタイ受難曲》を聴くのは、たぶんこれが最初で最後だろう、と朧気ながらわたくしは思った。
 座席に在って、つっ、と涙が落ちるのを禁じ得なかったこと、ここでどうしても告白しておきたい。
 この追悼公演を以てマタイ研究会は解散してしまったけれど、なにかの機会に再結成され――例えそれが一時的なことであったとしても――、バッハの音楽を響かせてくれるのを、望んでやまない。

 追悼公演から何ヶ月か経って、よく行っていた神保町の中古レコード店で、井形さんの歌うシューマンのLPを見附け、購入した。
 マタイ研究会が録音した《マタイ受難曲》とこのLPを聴きながら、音楽家としての生を未完成のまま倒れて逝った井形景紀さんを偲ぶことが、あれから10年以上が経つ現在(いま)は年に一度の定例行事と化している。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。