第0468日目 〈歴代誌上第16章:〈神の箱の前で儀式を始める〉〉 [歴代誌・上]
歴代誌上第16章です。
代上16:1-43〈神の箱の前で儀式を始める〉
臨在の幕屋に安置された主の契約の箱の前で、民(人々)は焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。そのあと、ダビデは主の御名によって民を祝福し、老若男女問わずパン1個となつめやしの菓子、干しブドウの菓子を分け与えた。
レビ人の幾人かには神の箱の前に立たせて奉仕者とし、イスラエルの神、主に感謝し、讃美する役目が与えられた。その役に任ぜられたのは、ゼカルヤ、エイエル、シェミラモト、エヒエル、マティトヤ、エリアブ、ベナヤ、オベド・エドム、エイエルで、頭はアサフであった。
「ダビデはその日その時、初めてアサフとその兄弟たちに、主に感謝をささげる務めを託した。」(代上16:7)
そうしてこのあと、66行に渡って、イスラエルの神、主に感謝し、讃美する歌が綴られる。
~ (前略)
主はわたしたちの神
主の裁きは全地に及ぶ。
とこしえに主の契約を心に留めよ
千代に及ぼすよう命じられた御言葉を
アブラハムと結ばれた契約
イサクに対する誓いを。(代上16:14-16)
(中略)
大いなる主、大いに賛美される主
神々を超えて、最も畏るべき方。
諸国の民の神々はすべてむなしい。
主は天を造られ
御前には栄光と輝きがあり
聖所には力と喜びがある。
諸国の民よ、こぞって主に帰せよ
栄光と力を主に帰せよ。(代上16:25-28)
(中略)
イスラエルの神、主をたたえよ
世々とこしえに。
民は皆、アーメンと答えよ。
主を賛美せよ。(代上16:36) ~
ダビデ王は主の契約の箱の前に奉仕者、即ちアサフとその兄弟たちを残し、オベド・エドムやその兄弟68人らを残して門衛とした。
また、ギブオンの聖なる高台にある主の幕屋には、祭司ツァドクとその兄弟から成る祭司を残して、朝な夕なの献げ物の儀式を執り行わさせた。
「こうして民は皆、自分の家に帰っていった。ダビデも家の者に祝福を与えるために引き返した。」(代上16:43)
並行箇所はサム下6:17-19。あっさりと触れられただけの描写を、本章では詳細に語られてゆきます。そこには、<補足>という以上の情熱と使命めいたものを感じます。
ここを読んだとき、代上16:25-28に思わず、じん、となりました。ここに、イスラエルのアイデンティティと聖書の理念が集約されているように思ったのです。それは抜きにしても、個人的にはすごく好きな部分であります。なんていうかさぁ、カッコよくない?
また、本章に於けるオベド・エドムは、奉仕者と門衛とでは同名異人なのでしょう。かつて神の箱を預かったオベド・エドムは、門衛の方であります。
聴き続けてきて思うのは、つまるところシューベルトの作品で、「これは聴いておけ」というのは「これだけ聴いておけばいいですよ」の同義語ではあるまいか。
この定義に外れる作曲家なんているのかな、とも考えこむ定時であがった金曜日の夜。モーツァルト? まさにこの定義を体現する人でしょう。◆
代上16:1-43〈神の箱の前で儀式を始める〉
臨在の幕屋に安置された主の契約の箱の前で、民(人々)は焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。そのあと、ダビデは主の御名によって民を祝福し、老若男女問わずパン1個となつめやしの菓子、干しブドウの菓子を分け与えた。
レビ人の幾人かには神の箱の前に立たせて奉仕者とし、イスラエルの神、主に感謝し、讃美する役目が与えられた。その役に任ぜられたのは、ゼカルヤ、エイエル、シェミラモト、エヒエル、マティトヤ、エリアブ、ベナヤ、オベド・エドム、エイエルで、頭はアサフであった。
「ダビデはその日その時、初めてアサフとその兄弟たちに、主に感謝をささげる務めを託した。」(代上16:7)
そうしてこのあと、66行に渡って、イスラエルの神、主に感謝し、讃美する歌が綴られる。
~ (前略)
主はわたしたちの神
主の裁きは全地に及ぶ。
とこしえに主の契約を心に留めよ
千代に及ぼすよう命じられた御言葉を
アブラハムと結ばれた契約
イサクに対する誓いを。(代上16:14-16)
(中略)
大いなる主、大いに賛美される主
神々を超えて、最も畏るべき方。
諸国の民の神々はすべてむなしい。
主は天を造られ
御前には栄光と輝きがあり
聖所には力と喜びがある。
諸国の民よ、こぞって主に帰せよ
栄光と力を主に帰せよ。(代上16:25-28)
(中略)
イスラエルの神、主をたたえよ
世々とこしえに。
民は皆、アーメンと答えよ。
主を賛美せよ。(代上16:36) ~
ダビデ王は主の契約の箱の前に奉仕者、即ちアサフとその兄弟たちを残し、オベド・エドムやその兄弟68人らを残して門衛とした。
また、ギブオンの聖なる高台にある主の幕屋には、祭司ツァドクとその兄弟から成る祭司を残して、朝な夕なの献げ物の儀式を執り行わさせた。
「こうして民は皆、自分の家に帰っていった。ダビデも家の者に祝福を与えるために引き返した。」(代上16:43)
並行箇所はサム下6:17-19。あっさりと触れられただけの描写を、本章では詳細に語られてゆきます。そこには、<補足>という以上の情熱と使命めいたものを感じます。
ここを読んだとき、代上16:25-28に思わず、じん、となりました。ここに、イスラエルのアイデンティティと聖書の理念が集約されているように思ったのです。それは抜きにしても、個人的にはすごく好きな部分であります。なんていうかさぁ、カッコよくない?
また、本章に於けるオベド・エドムは、奉仕者と門衛とでは同名異人なのでしょう。かつて神の箱を預かったオベド・エドムは、門衛の方であります。
聴き続けてきて思うのは、つまるところシューベルトの作品で、「これは聴いておけ」というのは「これだけ聴いておけばいいですよ」の同義語ではあるまいか。
この定義に外れる作曲家なんているのかな、とも考えこむ定時であがった金曜日の夜。モーツァルト? まさにこの定義を体現する人でしょう。◆
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