第0620日目 〈映画『ソラニン』を観てきました。〉 [日々の思い・独り言]
……というわけで、映画『ソラニン』を観に行ったのであります。
どうにかこうにか、上映最終日に間に合うことができました(本稿は05月21日午後に執筆されました)。
観ている最中、<迷走する20代>という言葉が思い浮かびました。自由なようだが、なんだか拘束されているみたいな、曖昧な時間。なんでもやれて、どこにでも、どこまでも行けそうな気がするけれど、でも本当はなんにもできなくて、どこにも行けないことを薄々感づき始める時間。なにかから逃げようとしてもがいても、なにから逃げようとしているのかよくわからなくて、自分で自分に重圧をかけてしまって余計もがいて足場を見失いそうになる時間。
20代って、きっとそんな時間が連続していた。心のモヤモヤと焦燥感とワクワク感が綯い交ぜになり、青い空に向かって意味もなく咆吼してみたくなった。そうすることで、前に進む力が空から振ってくるんじゃねーか? そんなことを考えながら。
これとは逆に、「そんなことはなかったぞ。もっと建設的で、きちんと未来を考えていたぞ」と胸を張って仰れる方、心底からそういえるのなら、あなたはきっと幸せです。どうぞ、“あちら”へ。さようなら。
芽衣子(宮﨑あおい)も種田(高良健吾)も、加藤(近藤洋一/サンボマスター)もアイちゃん(伊藤歩)も、ビリーさん(桐谷健太)も、『ソラニン』のなかでそんな時間を過ごして音楽をやっていたんだと思う。ぼくの場合は音楽じゃなくて、小説であり演劇であり、ときには映画であったりしたけれど、やっぱり20代の頃は同じような気持ちを抱えてあの時間を生きていたのかなぁ……。「いまやっていることで世界を征服してやるぜっ!」的な思い上がりと漲りが、うまく同居していた━━それだけは、いえるような気がする。
うむ、なんだか内向的な話になってしまったな。でも、この映画を観て、ぼくはとっても痛かったんだ。ああ、あすこにあの頃の俺がいる、って。小さな世界の片隅で小さく生きている、でも夢だけは人一倍大きくて。<味方以外はすべて敵>なんて嘘か誠か定かでないカラヤン語録まで援用して、世界に対していきがっていた自分が、映画のなかにいた。なんだろう、このヘンチクリンで甘酸っぱくて苦々しい思いは?
『ソラニン』。ぼくのような、ふつうの人とはちょっと外れたところにある職能に目覚めてそれで食って生きてゆきたくて、すべてに失敗して挫折して、でも夢の残滓を喰らってしぶとく生き続けている人種には、絶対観てほしい映画。だが、古傷に対面する覚悟を決めて観てほしい映画でもある。クライマックス直前でのビリーさんのようにクサイ台詞を吐くつもりはないけれど、自分にとって『ソラニン』ってそんな映画なんだ。キャストやスタッフには眉根を寄せられるかもしれないが、こんな見方をする奴が一人二人いたって文句はあるまい。きっとDVDでいつでも観られるようになったなら、もっと真っ当な感想が出て来ると思うよ。乞うご期待(おい)。
最後になったが、ちょっと映画そのものにも(一部だけだが)触れようかな。
実をいえば、劇場で宮﨑あおい出演(主演)作品を観るのは初めてのような気がする(『秘密』、『少年メリケンサック』は忙しくて上映期間を逃したのだ)。タバコを吸う宮﨑あおい。昼間に多摩川の土手でビールをグビ飲みする宮﨑あおい。一心不乱にゲームへ没頭する宮﨑あおい。すべてが新鮮で、なんだかとっても愛おしい。加えて、愛した人を突然亡くして喪失感に潰されそうな彼女の細さに、女優としての凄まじさと色気を改めて実感させられました。
そうしてなによりも、タイトル曲「ソラニン」を熱唱する彼女の表情に惚れました。鈍く光る玉のような汗に惚れました。序でにいえば(ん?)、サポートする加藤とビリーさんの表情に男惚れしました。CMで歌うザ・ブルー・ハーツが如何にもヘタウマだったのに対し、ここでは歌手・宮﨑あおい、もとい、芽依子を迎えた新生“ロッチ”のパンチとパッションに満ちた歌声が堪能できます。
うーむ、でへ。◆
どうにかこうにか、上映最終日に間に合うことができました(本稿は05月21日午後に執筆されました)。
観ている最中、<迷走する20代>という言葉が思い浮かびました。自由なようだが、なんだか拘束されているみたいな、曖昧な時間。なんでもやれて、どこにでも、どこまでも行けそうな気がするけれど、でも本当はなんにもできなくて、どこにも行けないことを薄々感づき始める時間。なにかから逃げようとしてもがいても、なにから逃げようとしているのかよくわからなくて、自分で自分に重圧をかけてしまって余計もがいて足場を見失いそうになる時間。
20代って、きっとそんな時間が連続していた。心のモヤモヤと焦燥感とワクワク感が綯い交ぜになり、青い空に向かって意味もなく咆吼してみたくなった。そうすることで、前に進む力が空から振ってくるんじゃねーか? そんなことを考えながら。
これとは逆に、「そんなことはなかったぞ。もっと建設的で、きちんと未来を考えていたぞ」と胸を張って仰れる方、心底からそういえるのなら、あなたはきっと幸せです。どうぞ、“あちら”へ。さようなら。
芽衣子(宮﨑あおい)も種田(高良健吾)も、加藤(近藤洋一/サンボマスター)もアイちゃん(伊藤歩)も、ビリーさん(桐谷健太)も、『ソラニン』のなかでそんな時間を過ごして音楽をやっていたんだと思う。ぼくの場合は音楽じゃなくて、小説であり演劇であり、ときには映画であったりしたけれど、やっぱり20代の頃は同じような気持ちを抱えてあの時間を生きていたのかなぁ……。「いまやっていることで世界を征服してやるぜっ!」的な思い上がりと漲りが、うまく同居していた━━それだけは、いえるような気がする。
うむ、なんだか内向的な話になってしまったな。でも、この映画を観て、ぼくはとっても痛かったんだ。ああ、あすこにあの頃の俺がいる、って。小さな世界の片隅で小さく生きている、でも夢だけは人一倍大きくて。<味方以外はすべて敵>なんて嘘か誠か定かでないカラヤン語録まで援用して、世界に対していきがっていた自分が、映画のなかにいた。なんだろう、このヘンチクリンで甘酸っぱくて苦々しい思いは?
『ソラニン』。ぼくのような、ふつうの人とはちょっと外れたところにある職能に目覚めてそれで食って生きてゆきたくて、すべてに失敗して挫折して、でも夢の残滓を喰らってしぶとく生き続けている人種には、絶対観てほしい映画。だが、古傷に対面する覚悟を決めて観てほしい映画でもある。クライマックス直前でのビリーさんのようにクサイ台詞を吐くつもりはないけれど、自分にとって『ソラニン』ってそんな映画なんだ。キャストやスタッフには眉根を寄せられるかもしれないが、こんな見方をする奴が一人二人いたって文句はあるまい。きっとDVDでいつでも観られるようになったなら、もっと真っ当な感想が出て来ると思うよ。乞うご期待(おい)。
最後になったが、ちょっと映画そのものにも(一部だけだが)触れようかな。
実をいえば、劇場で宮﨑あおい出演(主演)作品を観るのは初めてのような気がする(『秘密』、『少年メリケンサック』は忙しくて上映期間を逃したのだ)。タバコを吸う宮﨑あおい。昼間に多摩川の土手でビールをグビ飲みする宮﨑あおい。一心不乱にゲームへ没頭する宮﨑あおい。すべてが新鮮で、なんだかとっても愛おしい。加えて、愛した人を突然亡くして喪失感に潰されそうな彼女の細さに、女優としての凄まじさと色気を改めて実感させられました。
そうしてなによりも、タイトル曲「ソラニン」を熱唱する彼女の表情に惚れました。鈍く光る玉のような汗に惚れました。序でにいえば(ん?)、サポートする加藤とビリーさんの表情に男惚れしました。CMで歌うザ・ブルー・ハーツが如何にもヘタウマだったのに対し、ここでは歌手・宮﨑あおい、もとい、芽依子を迎えた新生“ロッチ”のパンチとパッションに満ちた歌声が堪能できます。
うーむ、でへ。◆