第0630日目 〈ヨブ記第9章:〈ヨブと三人の友の議論 一〉6/11〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第9章です。

 ヨブ9:1-35〈ヨブと三人の友の議論 一〉6/11
 ビルダドにヨブが答える、━━

 友なるビルダドよ、君のいうことはよくわかる。神より自分の方が正しいと主張できる者など、あるはずがない。神の心は智慧と力に満ちているから。神はすべてを支配し、その業には何人も逆らうことができぬ。
 が、それゆえにこそ、正しい者も神に対しては言葉を持つことができない。神は理由なく正しい者を傷つけることもある。例えば、私だ。私はいおう、所詮は同じなのだ、と。無垢であろうと罪人であろうと、逆らう者であろうと従う者であろうと、神は等しく滅ぼし尽くすのだ、と。
 「罪もないのに、突然、鞭打たれ/殺される人の絶望を神は嘲笑う。/この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。/神がその裁判官の顔を覆われたのだ。/ちがうというなら、誰がそうしたのか。」(ヨブ9:23-24)

 神の怒りを恐れることなく、私はここに宣言する、私は正当かつ公正に扱われてはいない、と。「苦しみの一つ一つがわたしに危惧を抱かせ/無罪を認めてもらえないことがよく分かる。/わたしは必ず罪ありとされるのだ。/なぜ、空しく労することがあろうか。」(ヨブ9:28-29)
 敢えて私は繰り返そう、私は正当かつ公正に扱われてはいないのだ、と。



 「ヨシュア記」や「サムエル記」あたりでしばしば書いた記憶があります━━旧約聖書の神は残忍である、と。人の行いに対して容赦なく降された神の業の描写に即して斯く申したわけでありますが、「ヨブ記」の本章では神に従う正しい者の側から、神の残酷と残忍、無慈悲について訴えの声があがりました。
 ならば正しければそれだけで神は慈悲の眼差し注ぎ、罪と縁なき生涯を歩ませ、幸を贈り給ふのか、と疑問が生まれるのは当然でないのか。……「ヨブ記」で提示されたこの問題は、敬虔であろうとなかろうと、万人の上にのしかかる永久の疑問であるように思います。
 違うでしょうか?



 今日、映画『RAILWAYS』を観てきました。夕暮れの宍道湖と風にそよいで波立つ麦畑。物語や一畑電車以上に心に残ったのは、それら福井の情景でした。感想を後日お披露目できればいいと思います。◆
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