第0749日目 〈詩編第057篇:〈憐れんでください〉〉 [詩編]

 詩編第57篇です。

 詩57:1-12〈憐れんでください〉
 題詞は「指揮者によって。『滅ぼさないでください』に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき。」

 ダビデはサウルの恨みを買い、その手を逃れて遠近(をちこち)を彷徨うた。折に触れてダビデは救いを求め、逃亡を感謝する詩を詠んだ。詩57もその一つ。
 詩57はダビデがアドラムの洞窟に潜んでいた際の作物、とされる。該当する箇所はサム上22:1。即ち時系列に直せば、詩56→詩34→詩57となる。連続した記述のなかでこれだけの詩が詠まれたのは、そこがダビデの最も危難に陥ったとき、ということであり、同時に、逃亡劇のいちばんのヤマ場であった、ということだ。
 「わたしの魂は屈み込んでいました。/彼らはわたしの足もとに網を仕掛け/わたしの前に落とし穴を掘りましたが/その中に落ち込んだのは彼ら自身でした。」(詩57:7)
 如何に苛酷な状況にあろうと信仰は揺るがない。主に依り頼み、主を讃美する歌をうたおう。いつか誉れは目覚め、曙を呼び戻すこともできるだろうから。斯様にダビデの、イスラエルの、神なる主を信じる心には何の迷いもない。一点の曇りもない。強くて確かな信じる心━━彼らを支えるのは、それだ。
 なお、アドラムはユダ族の領内の丘陵地帯にあり、ベツレヘムとガトを結ぶ線のほぼ真ん中に位置する町。ヨシュアらイスラエルによるカナン入植以前から栄えていた町でもあった(アドラムの王が倒された報告は、ヨシュ12:15にあり)。後、南王国ユダの初代王レハブアムが北王国イスラエルの脅威に備えて強化した15の砦の町の一つで(代下11:7。並行箇所の王上14:21-31には既述なし)、捕囚を解放されたバビロンからの帰還団の一部がこの町に住んだ(ネヘ11:30)。

 「いと高き神を呼びます/わたしのために何事も成し遂げてくださる神を。/天から遣わしてください/神よ、遣わしてください、慈しみとまことを。」(詩57:3-4)

 「神よ、天の上に高くいまし/栄光を全地に輝かせてください。」(詩57:6,12)



 “一日一針”ならぬ“一日一枚”。確かにこれはよい方法だ、いままでも意識しないでやって来たけれどね。直近の事例では昨日書いたリヒテルだが(「買って1週間経ってないじゃん!」というツッコミは受け入れない)、クラシックで他に当てはまる作曲家にプロコフィエフがいた。
 中古CDで小澤征爾=BPOの交響曲第3&4番、第5番&組曲《キージェ中尉》を買い、同日に他店でアバド=ロンドン響の《アレクサンドル・ネフスキー》他を買った。以前から興味はあって図書館で借りたCDをダビングして聴いていたけれど、どうにも駄目だったんだね(DG;Panoramaシリーズのプロコフィエフ作品集です)。なんだか、ピン、と来なかったんだ。チャイコフスキーやムソルグスキーのように聴いて誰でもわかる曲、感動できる曲、というわけでなかったせいかもしれない。加えて、20世紀の作曲家という最強の拒絶反応も(心のどこかに)あった。
 それでもほぼ毎日耳を傾けていた或る日、晴れた空に突然雷鳴が轟くような感じで、「プロコフィエフ、カッコイイ!」と内心叫んだのである。そのとき聴いていたのって、確かA.シュミット独唱の組曲《キージェ中尉》でなかったかしら。第5曲<キージェの葬式>が静かに終わってCDが止まるまでの数瞬、まさしく脳天をハンマーで叩かれたような衝撃を味わったのだ。慌てて同じCDに入っている交響曲第5番を最初から聴き直したのを覚えています(第4楽章はタコ10と並ぶアドレナリン全開の音楽ですよね)。
 以来、プロコフェエフのCDをどっちゃり買いこんできて聴き耽る日々を送っている……というわけではない。いや、正直どんな風に聴き倒してゆけばよいのか、わかっていないんですよね。もっとはっきりいえば、プロコ以上に“いま”聴きたい作曲家・演奏家がいて、プロコフィエフにまでは手が回らない、という方が正解か。取り敢えずいまは架蔵するなかにある彼の音盤を合間合間に聴いて、その格好良さに痺れまくっています(死後?)。ピアノ協奏曲第3番や《束の間の幻影》、歌劇《3つのオレンジへの恋》とか良い作品が揃っているよね。
 文筆にも才を奮ったプロコフィエフ、自伝(音楽之友社)の他に小説もオススメです。ちょっとシュールな作品は、村上春樹が好きなら気に入る人もいると思うけれどなぁ(『プロコフィエフ短編集』豊田菜穂子・訳 群像社 2009)。◆

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