第0750日目 〈詩編第058篇:〈しかし、お前たちは正しく語り〉〉 [詩編]

 詩編第58篇です。

 詩58:1-12〈しかし、お前たちは正しく語り〉
 題詞は「指揮者によって。『滅ぼさないでください』に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。」

 これは、主の道から外れて不当な法の裁きを行う者たちへの警告の詩である。後半では彼らが主の制裁を受けることへの期待が描かれる。
 一寸面白いな、と思うのは、神に逆らう者とはこんな風だ、と説明する際の表現、比喩だ。わたくしが念頭に置いているのは第4-6節なのだが、普段使っている新共同訳ではこうなっている。曰く、━━
 「神に逆らう者は/母の胎にあるときから汚らわしく/欺いて語る者は/母の腹にあるときから迷いに陥っている。/蛇の毒にも似た毒を持ち/耳の聞こえないコブラのように耳をふさいで/蛇使いの声にも/巧みに呪文を唱える者の呪文にも従おうとしない。」(詩58:4-6)
 他の訳の聖書でこの箇所を読み比べるのも楽しかろうが、それにしても、蛇である。
 蛇。考えてみれば、われらは久しくこの単語を目にしてこなかったように思う。旧新訳併せてみても、蛇は堕落の代名詞である。聖書で蛇と来れば、創世記だろう。そう、アダムとエバがエデンの園から追放される要因を作った、あの蛇である。かつて蛇は、「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢い」(創3:1)とされたが、アダムとエバを罪に汚してからは、「あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。/お前は、生涯這いまわり、塵を食らう」(創3:14)生き物にまで貶められた蛇。
 その蛇が詩58で比喩として持ち出されたのは、それだけ不当な法の裁き人が悪に染まった存在であることを語っている。逆にいえば、こう比喩しなければならぬ程、詩58で詠われる法の裁き人の不当なる行為は許され難いものであったのであろう。
 ……些末な部分にこだわってしまった。が、小さな作物ながら斯様な表現、比喩を引き合いに出して、不当なる法の裁き人を弾劾している点に於いて、この詩58は特色ある詩と申せるのではないか。神なる主の正義が悪を駆逐するだろう、という構図は最早見馴れて珍しいものでも何でもないけれど。

 「鍋が柴の炎に焼けるよりも速く/生きながら、怒りの炎に巻き込まれるがよい。/神に従う人はこの報復を見て喜び/神に逆らう者の血で足を洗うであろう。」(詩58:10-11)



 ロシア音楽つながりで。ムソルグスキーの《展覧会の絵》は初めて聴いたときから好きになってしまいました。
 学生時分にアバド=ロンドン響のDG盤を中古で買い、十年近くは誰の指揮で聴いても結局これに立ち帰ったのですが、それを駆逐する一枚と遭遇した。チェリビダッケ=ミュンヘン・フィルのEMI盤がそれ。これを上回る演奏はあるまい、と思っていたのですが、やはり十年近く経って更にそれを退ける一枚と出会いました。以前もここで書いた記憶のあるジュリーニ=BPOのSONY盤です。お目当ては併収の歌劇《ボリス・ゴドゥノフ》のハイライトだったのですが、まるで瓢箪から駒のようにジュリーニの指揮する《展覧会の絵》にはまってしまいました。
 これについては改めて音楽専用ブログでレヴューする予定ですが、顧みれば《展覧会の絵》のお気に入りの演奏をもたらしてくれる指揮者は、みんなBPOに深き縁ある人々ですね。ふしぎです。ラトル? ぼくには駄目。まったく趣味に合わない。
 序にいえば、ムソルグスキーの歌劇に前述の《ボリス・ゴドゥノフ》と《ホヴァンシチナ》があります。これもお気に入りの演奏は━━いちばん頻繁に聴いていたのはカラヤンとアバドという、BPO常任指揮者を経験した2人の指揮した盤でしたね。
 アバドはかつて“ムソルグスキー・パラノイア”とまで揶揄された人ですから、彼のムソルグスキーはどの作品を聴いても聴き応えがあり、思わずその熱に中(あ)てられる程むせ返るような熱気にあふれていましたが、カラヤンの場合《ボリス・ゴドゥノフ》は別格として、生前に何度か(ライヴも含めて)録音し、映像も残した《展覧会の絵》については、アバド盤愛聴時代は並行して時折聴いていたものの、チェリビダッケ盤を聴くようになってからはすっかりプレーヤーに架けることもなくなりました。テンポが速すぎて、どうにも急き立てられている感が否めなかった。DGから発売された最後の来日公演の録音は、稀有なる例外として、最近は再(ま)たよく聴いていますが。
 ロシア音楽の<雪解け>が始まって以来、それまで聴いていたチャイコフスキーと今回ネタにしたムソルグスキーの他にも、多くの作曲家を聴くことができるようになりました。と同時に、なぜかは説明できぬけれど、ムソルグスキーの他の作品も探して聴くようになりました。先日も《展覧会の絵》オリジナルを含めたピアノ曲のCDを友人から借りてきましたが、こちらもなかなか一聴に値する作品が揃っていた。でも、それ以上にまとまった形で聴きたいのは、歌曲なのです。が、こちらは縁がないせいか、どう手を尽くしても買えないでいる。お金のあるときに物はなく、物のあるときにお金はない、というパターンです。
 一部作品にしか陽の目があたらず他はないものにされている感じの否定できない作曲家ムソルグスキーですが、逆にぼくはジュリーニのムソルグスキーに出会ったことで、この作曲家についてもっともっと多くを知り、他の作品も片っ端から貪欲に聴き倒してみたい、と願うようになりました。この野心がいつの日か達成されたら、きちんとしたムソルグスキーについてのエッセイを書いてみたいものだ、と思うておるところであります。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。