第0754日目2/2 〈詩編第062篇:〈わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。〉〉 [詩編]

 詩編第62篇です。

 詩62:1-13〈わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。〉
 題詞は「指揮者によって。エドトンに合わせて。賛歌、ダビデの詩。」

 全150篇の詩編のなかで、おそらくは最高傑作というてよいのが今回の詩62だ。
 欺負(ぎふ)と謀略に魂を奪われた者を詰り、主の道を外れることなく歩んで主の目に正しいと映ることを行う自分とその民は、神を信頼し避けどころとするのだ、という宣言。もしくは宣誓。それが、詩62の骨子である。
 これを読むわたくしの脳裏には「力が力を生むことに心を」囚われたかつての職場、いまの職場の誰彼の顔が浮かび、かつ露中の対日外交が思い浮かぶ。果たして<力>に魅入られた者はどこまで己を増長させてゆくのだろう。道理を忘れて欲望にまみれ、道を踏み外して暗黒面に落ちたら、もうかつての<心>は取り戻せぬのだろうか?

 「人の子らは空しいもの。/人の子らは欺くもの。/共に秤にかけても、息よりも軽い。/暴力に依存するな。/搾取を空しく誇るな。/力が力を生むことに心を奪われるな。
  ひとつのことを神は語り/ふたつのことをわたしは聞いた。/力は神のものであり/慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と。/ひとりひとりに、その業に従って/あなたは人間に報いをお与えになる、と。」(詩62:10-13)



 かつて書いたように叔母が亡くなり、親類もこの場合は喪に服すわけである。そろそろ喪中葉書のことを考える時期になったが、つくづく骨の髄まで染みこんだ道楽とは恐ろしい、と実感しているのだ。
 こんな次第だ、聞いてくれ。あるとき、喫茶店で本を読んでいた。そんなとき、ふっ、と思いが乱れた。その狭間から、書くことを諦めた物語の種子が侵入してきた。ノートを開いて第一稿を書き上げるまでに、さして時間はかからなかった。
 物語は変容した。当初はまったく意図しなかった人について書き、まったく意図していなかった短い物語が、満足して筆を擱いたわたくしの前に広がっていた。その後、流れの悪い箇所の処理に悩んでいるうち、いつの間にやらカレンダーは11月。既に第一稿は<そこ>に眠って新しく手を入れられるのを待っている。が、発表する舞台はないのだ……。
 否、発表する舞台はある━━ここに! 年賀状用の小説とは、クリアランス・セールの対象品に等しい。時期を逃したら価値は失われる。叔母の喪中であるのに、という難詰を覚悟の上で、本ブログにて「詩編」のノートと同時に、件の小説を発表することにする。でもそのとき、われらは第何篇の詩を読んでいるのだろう? 詩119-122のどれかか?
 葉書一面に収まる分量ゆえに掌編と呼ぶべきものとなるが、わたくしは毎年こんな小説を書いて、受け取った人が永く握玩してくれることを希望しているのだ。
 さて、ここで宣伝もお終いだ。過度な期待は体に悪い。あなたにも、わたくしにも。◆

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