第0807日目 〈こんな夢を見た(その3):薔薇色に染まるビルへ。〉 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]

 息を切らして自転車を走らせる。急いで“あの場所”へ向かわなくてはならなかった。もう陽は傾いていた。タイム・リミットも近い。
 共に走っていた連中は、違反を続けてもう射殺されていた。ぼくは死ぬわけにいかない。なにがあろうと、ゴールしなくてはならなかった。駅前のバスロータリーを突っ切り、雑踏をすり抜けながら、国道沿いにひたすらペダルを漕ぎ続けた。ペダルを一漕ぎするごとにゴールが離れてゆく錯覚さえする。
 覚えのない声が聞こえた。なんといっているのかわからない。その声は空から降ってきたみたく聞こえる。だけど、そんなことに関わっている暇はない。一刻も早く“あの場所”へ辿り着かなくてはならない。
 額に浮かぶ汗がちょっとの衝撃で鼻頭や頬へ流れる。それはシャツのなかへ悪寒と一緒に伝い落ちていった。

 左前方に丘陵を背にしたゴールが見えてきた。夕陽で薔薇色に染まるビルが、あすこにあった。それは、オレンジ色や紫色に彩られた雲が棚引いて浮かぶ空の頂を目指すかのように聳えるビルだった。曰く表現しがたい崇高な気持ちが、心の奥深くから湧き起こり、全身を包んだ。同時に、力が蘇ってきた。
 目的地までのだいたいの距離を目測する。予定の時間までは辿り着けそうだった。
 そこにいるはずの人々の顔を思い浮かべ、いつの間にか滂沱とあふれ出した涙をグイ、と拭い、その人たちとの再会だけを心の支えにして、ペダルを漕ぐ足により力を入れて前へ進んだ。
 ラーメン屋や左官屋の前を通り、片側三車線の道をふらふらになりながらも自転車を走らせる。やがて道は信号のところで左へ曲がり、高架をくぐり崩れかけた橋を渡って寺の山門を右手に見つつ、乳製品の加工場の前にある信号を右へ曲がった。

 目の前に急勾配の登り坂が待ち構えていた。ここを無事に登り切ってゴールした者は殆どいない、と聞いている。向こうにビルが見えた。息を整える間もなく、再びペダルを漕ぐ足に力を入れた。悠長にサドルに腰をおろしている場合ではない。
 体を大きく左右に揺らして蛇行しながらも坂を登る。すると、さっき聞こえた声が耳にはっきり届いた。
 前を見やると、頂に多くの人の姿があった。その最前列の真ん中に、生還をいちばん待ち望んでくれている人の姿が見えた。その人は生まれたばかりの命を大事に抱きかかえている。声は確かにそこから聞こえた。赤子の心の内の声が僕を招いていた。

 かの人の姿を認めると、急に心に余裕が生まれ、周囲に視線を巡らすゆとりも生まれた。
 坂の両脇には完全武装した兵士がずらりと居並んでいた。脱落者/違反者を収容する車輌が奴らの背後に待機して、倒れたぼくを放りこむ準備を終わらせている。心臓破りの坂、と通称される、コースの最難所にさしかかったのだ。
 これは文字通り生命を賭けた、真の父親になるための通過儀礼。僕はこれに参加しなくてはならなかった。それが〈掟〉であり、〈管理者たち〉が求め、古の世から代々受け継がれてきた〈祭事〉だからだ。
 ぼくの背後にはこの競技に参加して倒れていった人々がいる。かれらの無惨な死体は磔にされて、森のなかの集会場で晒し者にされている。やがて烏や猛禽類に啄(ついば)まれることだろう。ぼくもあのなかに加わるのか? 否、それだけは絶対避けなくてはならない。ぼくは必ず“あの場所”に辿り着く。<家族>と再会する。そう約束してぼくはこの競技に━━殺人ゲームとさえいえるこの伝統的な通過儀礼に参加したのだ。生きて帰ること以外になんの目的と理由があろうか?

 最後の力を振り絞って自転車を漕いだ。汗でシャツは肌に貼りつき、もはや皮膚と一体化した感さえある。
 夕暮れは徐々に西の空から消えてゆき、闇が東の空から天を覆い尽くそうとしていた。
 自然と頂の人々から、一際大きな励ます言葉が幾つも、幾つも、一つの声は周りを巻きこんで大きな輪となり、四囲から投げかけられるようになってきた。だがそれは、タイム・リミットまで僅かであることも意味している。

 坂の頂まであと一メートル。ゴール・ライン目指して最後の一漕ぎをした。
 そして、運命の瞬間は訪れた。

 後輪がラインを踏み、泥よけがラインを越えた。
 トランペットが高らかに響き渡ってゴールを告げ、祝砲が一斉に鳴り響いてあたりを揺るがし、斯くしてタイム・リミットは告げられた。
 人々が取り囲んでエールを送ってくれているが、いまのぼくにはあまり意味を成すものではなかった。自転車から転げるように降りて、その人の姿を探した。

 不意に人垣が割れた。子供を抱いた彼女がゆっくりと歩み寄ってくる。白いスーツに身を包んだ妻の姿を認めると、よろめきながら駆け寄り、彼女と息子を抱きしめた。
 「生きて帰ってきてくれてよかった……」
 が、邂逅も束の間だった。すぐに手続きに向かわねばならない。妻と息子を連れて、手続きを済ませるべく両親と兄弟の待つかのビルへ足を向けた。振り返ると、乗ってきた自転車はもう回収されてそこにはなかった。

 雲を貫いて天の頂きを指すビルの壁は既に薔薇色なんかではなく、夜の色をたっぷり吸いこんだ冷徹な闇の色を湛えていた。◆
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