第0808日目 〈緒言:このブログをこれから、或いは最近から読む/読んでいる人のために〉 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]

 「詩編」最終巻の扉を開く前に、比較的最近からこのブログを閲読くださっている方も増えているようなので、筆者たるわたくしさんさんかから本ブログについて、みな様へ若干のことをご説明申しあげておきたい。

 ○さんさんかはキリスト者か?
 「否」である。ブログ巻頭に掲げるように、或る事情から聖書を読むようになったに過ぎぬ者だ。
 或る事情というてもあなた方にとっては大したことでない。単に、将来を誓い合った亡き女性がプロテスタントであっただけ。永の別れをして聖書を読むまでに約19年の歳月が、そこには横たわっている。なかなか結構な時間ではないか? むろん、キリスト教やユダヤ教の信仰を持つ者では、ない。

 ○聖書を読み始めたきっかけは? そうして、このブログを始めたきっかけは?
 読み始めたのは、何年目かの同時多発テロの日を数日後に控えた日であった。それ以前から聖書を読む意欲は徐々に高まっていたはずだが、実際にページを開いて「創世記」の最初の一文字から読み出したのは、その日の訪れを前にしてやたらと胸がざわざわしたのを鎮めんとしてであった。
 そうだ、なにを思うまでもなく、すーっ、と聖書に手が伸びたのを覚えている。それ以前にも聖書を開くことはあった。が、それもエッセイのタイトルにふさわしい詩句を探したり、詩編の幾つかをつまみ読みする程度のものでしかなかったのだ。開巻当初は映画や小説、或いはコミックなどでもお馴染みなお話が繰り出されて、飽きることがなかった。まさしく「聖書」という物語集を頭から楽しんでいる、という感じであったのだ。それに、『古事記』や『日本書紀』に親しんだ身には聖書の記述がそれらと性質を同じうするものと感じたのだ。
 が、そんな楽しみな聖書読みも「レビ記」に入るや風雲急を告げ始めた。否、「レビ記」ではない、兆候は「出エジプト記」の後半からあったのだ。「レビ記」は<六法全書>である━━つまり、生活してゆく上での様々な決まり事を延々と、細々と語ってゆく書物である。なんらかの形で整理しないと混乱を来して、聖書を部屋の片隅に抛つのは必定。それはとっても勿体ないことだ、とはわかっていた。
 如何に? 小さな脳みそでわたくしは思案し、はた、と思い立って、このブログを始めた。それから約3年、未だブログは続けられている。いまとなっては自分を支えているのはこのブログである、というても或る意味、過言ではない。

 ○本ブログの構成について。
 2008年秋のスタートから今日に至る間、続けてきたその過程でスタイルは徐々に変貌を遂げた。
 基本的な一日分の構成は、前半に、聖書の当該項目のノートと感想という形でされ、後半はさんさんかの個人的な備忘録━━原則として聖書から離れた話題を綴っている(原則、というのは、そうでないときもある、ということだ)。これがなくてはたぶん、このブログは今日まで読まれ続けることはなく、誰も見向きすらせず、存在さえ知られぬブログとなっていたことは間違いあるまい。ほぼ死に体のブログと化していただろう、と思うのだが、案外それは正しい予想であったかもしれない。むろん、いまとなってはそれを確かめる術などないけれど。
 徐々に変貌した、というのは、フォーマットが定まったことを意味するが、最近の「変貌」を例に挙げれば、一日分の原稿の分量が挙げられる。これまでも、例えば「列王記」や「歴代誌」などではワープロ・ソフトの一ページ分を超える分量を書き、「詩編」に入っては逆に一ページ分に満たない分量となっていた。それが、ここ2ヶ月ぐらいであろうか、ほぼ常にワープロ・ソフトの一ページ分を埋める、或いはまとめるようにしている。その日に書いた詩篇のノートが10行に満たないものであったなら、残りの分量を聖書から離れた話題で埋めるようにしているのだ。
 最初はちょっとしんどかった。一ページの、残った白い部分が巨大な塊のように自分にのしかかってくる思いを、PCの前へ坐るごとに味わったものだ。が、馴れとはげに凄まじきものである。いまではこの、400字詰め原稿用紙に換算して約2枚程度のフリー・スペース(日によって量の増減あり)を好きな話題でじゃんじゃかじゃんじゃか埋めるのが愉しくてならないのだっ!
 ときどき読みにくいな、と思われるかもしれないが、酒でもコーヒーでも飲みながら片肘突いて、ああまたいろいろとピーチクパーチク囀っておるな、と内心思いつつお付き合い願えれば、と思う。

 ○ブログの文章について。
 ここは、短く済ませよう。いままで何度も語ってきたからだ。そちらをご参照いただきたい。
 わが文章の規範はブラームスの音楽である。シェーンベルクであったか、ブラームスの音楽は簡素ながらとても雄弁である、といったのは。わが文章もこうありたいと思うのだ。一つ一つはシンプルな言葉であるのに、ひとたび文章となれば膨らみのある豊かなものへ変化する。ブラームスの音楽に、文章の一つの理想的なスタイルを、わたくしは見ているのだ。
 もう一つ、ブラームスの音楽には奥行きが感じらえれる。奥行きを与える方法は、古典の渉猟と耽読、それの積極的な利用にある。古典を連想させる言葉、表現、そうしたものを駆使して、文章にもう一つの顔を与える方法があるのを、わたくしは大瀧啓裕の訳したラヴクラフトの文庫の解説で知り、ブラームスの音楽でその効果を思い知らされたのだ。
 爾来、わが文章もそれに倣い、奥の院に連なりたい、と切望しているが、どうにも道は険しくかつ長い。ただこのブログを書き続けることは、かつて自分が手紙でそうしていたようにちょうどよい文章修行・鍛錬の場となっている、とは告白しておこう。
 とは申せ、わたくしがクラシック音楽の道に踏みこむきっかけを作ったのは、反ブラームス派の旗頭であるかのリヒャルト・ワーグナーである。それを踏まえて自分がこれまでここで書き散らしてきた文章の一々を点検すると、どうにもワーグナーばりに誇大妄想が強くなっているような気がしてやり切れない。
 が、文章なくして作品なし。それを胆に刻んで、これからもブログを書き続けよう。

 ○一言。
 これからも、どうぞ宜しく。◆
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