第0816日目 〈詩編第114篇:〈イスラエルはエジプトを〉&ちょっとセンチに喫茶店の話。〉 [詩編]

 詩編第114篇です。

 詩114:1-8〈イスラエルはエジプトを〉
 題詞なし。
 《ハレルヤ詩集》の一。

 歴史回顧の詩であり、歴史賛美の詩である。
 イスラエルの民はエジプトを脱出して、“約束の地”カナンを目指した。神は彼らを庇護して聖なるものとし、彼らを統べて治めた。囚われの地を去って進む彼らに海も地も鳴動して身を震わせた。どうしてか、と訊ねる作者に確たる答えはもたらされない。ただ、民と共に在る神の臨在がその理由である、とほのめかすだけ。
 「地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に/ヤコブの神の御前に/岩を水のみなぎるところとし/硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。」(詩114:7-8)
 ━━出エジプトとカナン入植、そこへ至るまでの荒れ野での40年の彷徨があるからこその歴史であり、培われて育まれた信仰である。その過程に於いて神は様々な御業を揮い、ヤコブの家を“乳と蜜の流れる地”カナンへまで導いてゆく。歴史と信仰のターニング・ポイントとして、いついつまでもその意義を噛みしめ、讃えようではないか━━この詩にこめられたメッセージはそういうものだろう、と考える。礼拝に欠くべからざる詩である。



 “喫茶店初体験”を思い出そうとしていちばん古い記憶にあるのは、神保町の「さぼうる」だが、本当にそこが初めての喫茶店であったか定かではない。いずれにせよ、初体験は地の利を生かしたそれであった。まぁ、初体験だけにビクビク、ワクワクし、鼻の穴が広がり、終わってみればスッキリした気分を味わった。筆おろしなんてそんなものです。
 でも、かといってそれから喫茶店に入り浸るわけではなかったのね。バブルがはじけて社会が不況のどん底にいる時代に、のんびりコーヒー啜ってる暇なんてありません。内定が直前中の直前に取り消され、窮余の策でもう少し学生を続けることになって2,3年後かな、再び喫茶店の扉をくぐるようになったのは。椅子へ体を沈めて運ばれてきたコーヒーの香りを嗅いだとき、えもいわれぬ感慨を抱いたっけ。
 その前後にスタバ1号店がオープンし、シアトル系カフェが巷に跋扈するようになるとそんな店のあることが、そこでテイクアウトしたコーヒーカップを持って歩く光景が、当たり前の日常風景になった。むろんその恩恵を自分も最大限に被っている立場だから、そんな現状を歓迎し、今後もこれまで同様ヘビー・ユーザーであり続けることに異存はない。
 が、所謂<喫茶店>に憩う時間も代え難い喜びなのだ。窓際の席に陣取って外をぼんやり眺めたり、静かな音量で店内に流れるジャズに聴き入ったり、いつの間にやら運ばれてきた、一杯一杯ドリップしたストレート・コーヒーを口へ運ぶたび、まるでたゆたうような、何物でもない時間を愉しむ気持ちを持てることは、しあわせなことではないのかな?
 行きつけの喫茶店がまさしくそうなんだよね。ここだけは、いつまでも変わらないでほしいな。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。