第0892日目 〈箴言第20章:〈酒は不遜、強い酒は騒ぎ。〉withもう暗闇のなかに独りぼっちはいやなのだ。〉 [箴言]

 箴言第20章です。

 箴20:1-30〈酒は不遜、強い酒は騒ぎ。〉
 これまで幾度となく、主の教え/言葉に従う人は完全で正しい道を歩む、と「箴言」はわれらに諭してきた。それこそが、自らが備えた知恵や分別によってもたらされた、自分で選んだ正しい行いである、と。
 が、実はそういうことでは(必ずしも)なかったらしい。箴20:24はそんな、一種の思い違いに冷水を浴びせかける。曰く、━━
 「人の一歩一歩を定めるのは主である。/人は自らの道について何を理解していようか。」(前掲)
━━と。これは諫めか、戒めか。思いあがるな、わが嗣業の民の者たちよ、という?
 公正なる裁きを行う王とて主の僕、主の慈しみとまことが王を守り、その玉座をも守るのだ。「賢い王は神に逆らう者を選び出し/彼らの上に車輪を引き回す。」(箴20:26)
 ……旧約聖書の神は残酷である。また、残酷であるがゆえに自分の選んだ者は相手が背かない限り、いつまでも愛で続ける。最近はチト忘れがちであった聖書の神、主の本性を思い出させる章、ともいえようか、この箴20は。

 「思い計らいは人の心の中の深い水。/英知ある人はそれをくみ出す。」(箴20:5)

 「眠りを愛するな、貧しくならぬために。/目を見開いていれば、パンに飽き足りる。」(箴20:13)

 「力は若者の栄光。/白髪は老人の尊厳。」(箴20:29)

 ○昨日の最後にちょっと匂わせたのは、こういうことなのです。
 道は正しくあろうとも、根本にあるのは主への信仰。子は父の諭しに従い、その言葉に耳を傾け、知恵を獲得し、分別を身に付けた。父のことも母のことも蔑ろにしない。あとは知恵と分別、諭しを胸に刻んで、正しい道を━━悪の誘いに心奪われて歩んできた道を外れないようにせよ。が、それはすべて主が定めたことなのである━━正しい道を行くか否か、主が計らって然るべき一歩を歩ませる。ゆえに「人は自らの道について何を理解していよう」という言葉がここで現れるのだ、とさんさんかは考えております。
 最後まで引用するかを迷って切り捨てた文言に、こういうのがありました。曰く、「親友と呼ぶ相手は多いが/信用できる相手を誰が見出せよう」(箴20:6)と。隣り近所だけでなく学校でも会社でも上辺だけの付き合いが横行して、中身のなにもない人間関係が幅を利かせる歪な時代にこそ相応しい言葉のように、思えませんか?


 外出も挫けさせる重苦しい雨が降っている。小説を書く手を休めて外を眺める。聖誕祭の夜の別れが想像から現実へと一気に魂を引き戻す。もう暗闇のなかに独りきりは耐えられないんだ。◆

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