第0899日目 〈箴言第26章:〈夏の雪、刈り入れ時の雨のように〉with4月、WOWOWにて放送される『カティンの森』について、いま述べておきたいこと。〉 [箴言]

 箴言第26章です。

 箴26:1-28〈夏の雪、刈り入れ時の雨のように〉
 世にはびこる怠け者、愚か者の所行について述べ立てられ、彼らと如何に接し、どうあしらえば良いかのヒントが提供される章。
 愚か者に名誉を与えることは、人が服に着られて歩いているようなものだ。愚か者が口にすることわざは薬にもならない。怠け者は詭弁を弄し、厄介事には首を突っこみたがるが自分がその巻き添えを喰らうのは嫌がる。
 外見と心は裏腹だ。美しく着飾っても心は暗く、唇の言葉は清らかでも心の内では執念が蜷局を巻く。が、どれだけ思っている事、考えている事を慎重に隠蔽しても、それはやがて必ずや公衆の面前で露見する。
 「陰口は食べ物のように呑み込まれ/腹の隅々に下って行く。」(箴26:22)そうして、「うそをつく舌は憎んで人を砕き/滑らかな舌はつまずきを作る」(箴26:28)のだ。

 「自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。/彼よりも愚か者の方がまだ希望が持てる。」(箴26:12)
 「怠け者は自分を賢者だと思い込む/聡明な答えのできる人七人にもまさって。」(箴26:16)

 「上品な声を出すからといって信用するな/心には七つの忌むべきことを持っている。」(箴26:25)

 ○みな様がどうかは知らないけれど、読んでいると、ふと、過去に出会った誰彼、或いは現在出会っている誰彼の顔や言動を思い起こすときがある。もしくは自身の過去であったりね。箴26もそんな一つだ。
 「箴言」の場合、基本的に自分の琴線へ引っかかった文言に着目するよりないので、本来のテーマから逸れるケースもあったりするけれど、却ってそれが「箴言」の言葉の一つ一つに歩を休めて目を注ぎ、結果的に「箴言」を(一応きちんと)読ませる事になっているのであろう。この数日静かに考えて、そう思う事にした。
 経験からいえば、そんな風にして自分の側へ引き寄せたり重ねたりして読んだときの方が、ノートはすっきりとまとまるような気がする。後から読み返すとふしぎとそういうときのノートの方が、思った事をストレートな形で言葉に移し替えられているようなのだ。……今日のノートもそうだといいな、と思うております。



 <カティン事件>。大戦初期、旧ソ連軍が不可侵条約を結んだナチス・ドイツと共にポーランドへ侵攻。捕虜となったポーランド軍将校たちをソ連領内のカティンという街の郊外に広がる森で秘かに虐殺された事件である。この事件をポーランドの名匠アンジェイ・ワイダ監督が映画化(2007)、日本でも『カティンの森』と題されてミニシアター系列で順次公開された(2009)。
 この『カティンの森』が来月、WOWOWで放送される。実はさんさんか、これを未見なのである。原作本を読んで「絶対観に行こう!」と意気込んでいたにもかかわらず、岩波ホールへ足を運ぶ事もままならぬ状況ゆえ観ることは適わなかった。取り挙げるブログも少ないことだろうから、敢えてここで書いているのだが、映画専門チャンネルでもなかなか放送の機会のないこの作品がWOWOWで観られるのは、わたくしのような映画ファンには僥倖である。
 原作小説の作者はアンジェイ・ムラルチク、訳者は工藤幸雄/久山宏一(集英社文庫)。申し添えれば、長くポーランド文学を訳してきた工藤にとって本書が最後の翻訳となった。読んだときの印象を思い起こせば、漂う厳粛な空気のなかで紡がれる、堅実な人間描写としっとりした会話が非常に魅力的であった。
 これについては良い機会であるから、「箴言」が終わったあとで書評を起こすつもりでいるが、史実を基にした作品だからとていたずらに資料に立脚するのでもなく、一個の生きた歴史小説として━━ほぼ生まれたてのやや文学味のかったエンタテインメント小説として、たっぷりと楽しめる内容になっている。このあたりの呼吸は作者がシナリオ・ライターであることもじゅうぶん関係しているのであろう。少なくともわたくしは、これを真剣かつ興奮しつつ、深い満足を持って読了した者である。
 原作を読み、映画を観た後で、なにかを考えてくれればいい、わずか数秒であっても。慌ただしい日常のなか、ちょっと立ち止まって過去について思いを巡らす時間を作るのって、とても大切なことだと思う。<カティン事件>は決して対岸の火事でも、自分たちとは無縁な外国で起こった昔の話ではない。◆

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