第0907日目 〈〈シネ響 マエストロ6〉②;アバド=ルツェルン祝祭管 2008年ルツェルン音楽祭 ラフマニノフ:P-C Nr.2&ストラヴィンスキー《火の鳥》(1919年版)他。 [日々の思い・独り言]

 クラウディオ・アバドの音楽に初めて出会うたのは、進学した年の晩秋のことだ。確か、ベルリン・フィルがカラヤンの後任にアバドを選んだ、という報道がされて間もない時分でなかったか。その晩秋の日の夜、ムソルグスキーの《展覧会の絵》を購入して、飽きるまで聴き耽った。
 爾来、多くのレコードに接してきたが、アバドの音盤でいちばんわたくしのなかに残るのは、一連のマーラーを別にすれば、その芸術性に於いても歴史的意義に於いても《ヴィーン・モデルン》全3枚のCDとなる。が、一方で最初に聴いたムソルグスキーの擦りこみ効果もあって、彼の振るロシア音楽へ傾倒、親炙していったのも事実。いうなれば、アバドはわたくしをロシア音楽へ導いた最初の指揮者だったのだ。
 その過程でストラヴィンスキーのバレエ曲も聴いたが、最初の興奮は次第に色褪せていった、といわざるを得ない。他の指揮者━━たとえば新旧のブーレーズ盤(SONY,DG)や作曲家自演のSONY盤、現在の愛聴盤となっているロバート・クラフト盤(NAXOS)に較べて、マッシヴさとグルーヴ感を若干ながら欠くように思えてきたのだ。
 今回の〈シネ響 マエストロ6〉でのアバドの回に足を運んでみよう、と思い立ったのも、プログラムのメインにストラヴィンスキーがあったからに他ならない。そこに現在のアバドのお手並み拝見、というさもしい下心はなく、ただ単純にこの<音楽に愛された男>の至芸を堪能したい、と思うたからである。でなければ、わざわざ新宿くんだりまで夜に出掛けるものか。
 前置きはさておくとして。
 高鳴る胸の鼓動を抑えつつ、〈シネ響 マエストロ6〉第2弾、クラウディオ・アバド=ルツェルン祝祭管弦楽団の映画を新宿バルト9へ観に行った。演目は、順番にチャイコフスキーの幻想序曲《テンペスト》、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(独奏:エレーヌ・グリモー)、ストラヴィンスキーの《火の鳥》組曲(1919年版)。おわかりのようにすべてロシア音楽で構成されており、題目はそのものズバリ、“ロシアン・ナイト”という。
 2008年夏にルツェルン音楽祭にて収録された映像で、会場はルツェルン文化会議センター。映画館で観たときも、それから時間が経ってこうしてブログ用の最終原稿を書いている現在も、この会場の印象は<青>である。ルツェルン文化会議センターはその名から察せられるように多目的ホールなのであろう。やたらと清潔感に満ちたモダンなデザインの箱、という印象がいまでも強く残っている。これは揶揄ではない。こんな場所で音楽を聴きたい! そう思わせるに足る会場であったのだ。

 シェイクスピアの戯曲『あらし(テンペスト)』を下敷きにしたチャイコフスキーの幻想序曲《テンペスト》。これは聴く機会があるようで実はそうでもない、という類の曲だ。アバドの流れるような、歌うような指揮に背筋がゾクゾクしたことをこっそり告白しておこう。意外にこの曲って色彩感にあふれ、表情も豊かなんだな! <隠れた名曲>なる惹句があるけれど、チャイコフスキーの可憐で繊細なこの曲にこそ、その文句は相応しいのではあるまいか?
 ところで、或る意味に於いてはストラヴィンスキー以上にこの映画の見せ場となるのが、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番であろう。昨日から感想をお披露目したラトルの映画でもラン・ランがこれを弾いていて、その際だから簡単な聴き比べを行ったから、演奏についてはそちらもご参照願いたい。ここではアバドとルツェルン祝祭管がぬくもりに満ちた伴奏で、終始寄り添うようにサポートしていた、とだけ付け加えておこう。
 ラフマニノフのこの曲には、たおやかでしなやか、その実、したたか、というイメージがある。ラン・ランよりもグリモーの方に親近を感じるのはそんな謂われかもしれない。作曲家自演の録音も込みで往年のピアニストの演奏なら男性でも一向に違和感がないのだが(聴くときには既に歴然と存在していたものだから)、リアル・タイムで聴くラフマニノフのピアノ協奏曲、殊に今回の第2番は実力と華のある女性のピアノで聴きたい。聴くのが男なのだから、男が持っていない感性を武器にする女性ピアニストの演奏を贔屓にするのは、致し方ないところでもあろう。そう思うて架蔵するラフマニノフのCDを漁っても、女性ピアニストの方が数的には若干上回る様子である。

 最後に、ストラヴィンスキーについて、書く。
 いや、良い演奏だったのだ。《火の鳥》組曲の1919年版は、3種類ある組曲のなかではいちばんポピュラーなものであるゆえに多くの異演が存在するけれど、今回のアバド=ルツェルン祝祭管による映像には、そんな並み居る競合盤を軽く一蹴するだけの<熱い滾(たぎ)り>が備わっている。
 わたくしはこれに終始興奮させられっぱなしであった━━映画館の座席に坐っていたときは勿論(体がリズムに合わせて揺れていないか、心配であった)、演奏が終わったあとは小さく拍手して心のなかで静かに熱くブラヴォーを叫び、帰り道の電車のなかでもずっと脳内再生していたのだ!
 時間が経ち冷静になって、当夜の演奏を思い出してみようと努めてみる。が、すぐにそれがとても困難であることを痛感させられた。それぐらい刺激的かつ鮮烈な演奏だったのである。うねるが如き音塊に呑みこまれて、多彩な響きに蠱惑され、まさしく<度肝を抜かれる>ような演奏だった……心を、否、魂をしっかり鷲摑みにされた演奏であった……。
 帰途にこれのDVDがあることを知り、買おうか迷って今日のこの日に至っているが、いまこうして思い出してみても、それがかつての後退感を想起させるものではなく、むしろこれを以て、少なくとも映像で観るストラヴィンスキーの最高峰と断言しても構わない、と思う程に空前絶後、声を失うような圧倒的な名演であったのだ。観る席もよかったのかもしれない、スクリーンの真正面。音楽は録音よりも生演奏、或いはこうした映像で━━ストラヴィンスキーに関しては特に!
 そんな聴き手の心へダイレクトに訴えかけてきて、根っこから揺さぶりかける荒々しさと情緒が同居したストラヴィンスキーだったのに、隣の人は暇そうだったなぁ。ラフマニノフでは身を乗り出して聴いていたのに……終わったあとは小さく拍手までしていたのに……貴方の目当てはラフマニノフであったのですね。
 でもいいのだ、大画面・高音質で観るしあわせを堪能できたのだから。デジタル映像ばんざい。
 プログラムが始まる前、万雷の拍手に導かれてアバドが画面に登場した。舞台袖から指揮台へあがるまで、そうして指揮台へあがってから、オーケストラと聴衆へ見せた含羞の笑み。
 それを目にしただけで胸が圧し潰されそうになり、目頭が熱くなった。脳裏に、200年1月にTVで観たヴェルディの《レクイエム》を指揮するアバドの、覚悟を固めたような痩身を思い出したからだ。あの姿は悲愴であったが、信念と献身の情念を漂わせていた。もうこれっきりかもしれない━━そんな思いで、画面のなかのアバドを仰視していたのを覚えている。
 が、<音楽に愛された男>は奇跡の生還を遂げた。そうしていま、2年前の映像ながらスクリーンのなかに彼はいる。アバドは再び第一線に戻ってきたのだ。こんなことを書いているいまこの瞬間も彼はこの星のどこかにいて、愛する音楽への尊敬と愛情を深めている。もしかするとそれはもはや<信仰>というべきレヴェルであるかもしれない。
 この<信仰>を持つ者だけが到達できる奥の院。◆

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