第0906日目 〈〈シネ響 マエストロ6〉①;ラトル=BPO 2009年ジルヴェスター・コンサート ラフマニノフ:P-C Nr.2&チャイコフスキー:《くるみ割り人形》第2幕〉 [日々の思い・独り言]

 昨年秋より新宿バルト9にて上映され続けた〈シネ響 マエストロ6〉というシリーズ映画。その第1弾となるサー・サイモン・ラトルとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ラン・ランによる2009年ジルヴェスター・コンサートの映画を、わたくしは理由あって観に行くことができなかった。
 従って足を運ぶようになったのは第2弾であるクラウディオ・アバドの回からということになるのだが、そのとき劇場スタッフに確認したことが一つだけあった。即ち、ラトルの回の再上映は決まっているのか、と。公式HPには近日、各劇場にて順次上映予定となっていたからだ(新宿バルト9も含めて)。が、返事は「否」であった。わたくしはそれを聞き、落胆の溜め息を洩らしつつ、それでもアバドの回を存分に楽しんだことはきちんと付け加えておこう。
 ━━と、そこへ! リクエストが殺到したと仄聞する、ラトルの映画が急遽、横浜の地にて再上映が決定されたのだ! 矢も盾も堪らず、昨2010年12月3日、仕事が休みなのを幸いと桜木町にあるコレットマーレの横浜ブルク13へ駆けこんだ……。単なる偶然か、それとも天の配剤か、観客はわたくしを含めてわずかに2人。しかも残りの1人は最後列に陣取っていたので、わたくしは周囲に悩まされることなく、たっぷりと音楽と映像の桃源郷を堪能したのであった。……ハレルヤ!
 さて。印象、というか、感想を簡単に綴ろう。
 2009年12月31日、宵のベルリンはいつの間にやら雪もやんで、しん、としていた。車も人も少なく、ひっそりとしている。闇の帳が降り、藍色の夜の色が辺りに垂れこめている。そうしてから映し出されたフィルハーモニー内のなんと明るいことか! このホールはこんなに明るかったであろうか? デジタル映像のもたらした視覚的とまどい? アバド時代にしても況やカラヤン時代においてをや、斯くも明るく映し出されたホールを観た/見たのは初めてのような気がする。映画館のような大画面であれ、家庭でこれのDVDを鑑賞する際であれ、わたくしのような視力の弱い人間にはとても助かる現代技術の恩恵である。それに、奏者の顔や指先の表情、楽器の輪郭、艶などはっきりとわかるのは、斯様に鮮やかな映像━━画質のゆえ、と申せよう。
 ここで当日のプログラムを記しておこう。前半はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(独奏:ラン・ラン)、後半はチャイコフスキーのバレエ音楽《くるみ割り人形》第2幕。それぞれの演目のあと、演奏者によるアンコールがあった。
 ではラフマニノフから。実は同じ曲が第2弾となったアバドの映画でも演奏されている。そちらの独奏者は女流のエレーヌ・グレモーであった。期せずして聴き比べができたわけであるが、軍配をどちらへ挙げるかは聴く人の好みであろう。わたくしの場合はだまし討ちで申し訳ないが、「引き分け」という感想だ。ラン・ランのタッチは重心が低くて響きに厚みがあった。詩情(ポエジー)よりも交響楽的(シンフォニツク)な方向を目指した演奏と感じた。グリモーはもう少し軽やかで、移ろいやすい乙女心と筋を曲げない頑固さが同居している。平たくいえば、両者の持ち味はまるで違うものながら、「これしかない!」と思わせてしまう説得力に満ちた演奏であったのだ。それでいて作品の持ち味は2人とも十二分に表現しているのだから、唸ってしまうより他にない。
 聴き比べの結果はここまでとして。それにしても、若きラン・ランのこの堂に入った演奏はいったいなんだろう。その風格はデヴューしてまだ10年と経たないのに、もう何十年もステージで演奏を続けてきた大家のそれである。CDでは決してわからぬ指捌きにしても確固とした自信にあふれているではないか。それが幾つにも折り重なった表情豊かな音色を生み出すのだろう。これがまだ30歳にもならぬ青年が鳴らす音とは俄に信じられぬ思いを抱いたことも、この際だからここで告白しておこう。
 これだけならもしかすると、わたくしはラン・ランをテクニック最優先のピアノ・マシンと片付けていたかもしれない。が、そうならなかったのは大きなスクリーンで、ラン・ランが時折見せる茶目っ気たっぷりの、いたずらっ子そうな表情に接したからだ。指揮台のサー・サイモンへ向ける爛々とした輝く眼に、オーケストラへ向ける恍惚とした崇敬の眼差しに、すっかり惚れたからだ。表情豊かは表現豊か、という、昔、誰かに聞いた言葉をふと思い出したことである。
 なんとすばらしい演奏であったことだろう━━! 終わったあとは自分も、スクリーンのなかにいるホールの人々と一緒に(小さく)拍手を送り、喜悦の笑顔が浮かぶのを否めなかった。良い曲に良い演奏で触れられるのは、この世でいちばん贅沢で幸福なことの一つである。ラトル退場後にステージへ戻ってきたラン・ランはおもむろにピアノの前に坐り直し、泰然とショパンの練習曲変イ長調Op.25-1を詩趣たっぷりに弾き、ホールの人々のみならずスクリーンのこちら側にいるわれらをも存分に楽しませてくれたのであった。
 後半のチャイコフスキーの《くるみ割り人形》といえば全曲版よりそこからピックアップされて編まれた組曲版の方が有名で、聴く側としても親しみがある(全曲版の方が馴染み深いとすればその人はおそらくバレエ関係者でないか)。それだけに全曲版を聴くと、新鮮な驚き、新しい感銘を覚えるのもまた事実である。今回のラトルの映画は第2幕のみながら、この驚きと感銘をたっぷり与えてくれる演奏だった。なんというか、今日のこのとき、生まれて初めて《くるみ割り人形》を聴いたかのような清らかで瑞々しい気持ちになったのだ。誇張ではない、本心である。
 いまはとてもしあわせな気持ちでいる。好きな曲を極上の演奏で楽しめたからだ。正直なところ、自分の周囲に誰もいなくてよかった、と思うている。我ながらずいぶんご満悦な表情で法悦の境地に至っておるな、とじゅうぶんすぎる程わかっていたからっ! 傍目から見れば、こいつは<恍惚の人>か、と疑われても仕方ないぐらいに……。否定する気はないが、決してそんなのではない、と強く断っておく。わたくしはそのとき、音楽の桃源郷に心身を浸し、かつ<法悦(エクスタシー)>が支配する世界を垣間見たのだ……牧神パンの妙なる笛の音色に誘われて。
 それにしても、ラトルとベルリン・フィルの組み合わせはここに至って遂に完璧なものとなったようだ。実はわたくしはこれまでラトルの音楽が好きではなかった、近現代の作品(マーラーやシマノフスキ、ストラヴィンスキーやショスタコーヴィチなど)については両手をあげて歓迎できても━━。が、古典派となるとどうも……なによりもウィーン・フィルとのベートーヴェンが、あの<不滅の九>が非道すぎた!! その耳を持って同じ古典派のハイドンや、降ってロマン派のブラームスまでも聴いてしまったのだから、もうこれは最悪というより他はない。
 でも、今回の映画やそれに触発されて買いこんだり借りたりしたCD/DVDを虚心に聴き耽った結果、存命指揮者に限っていえば、アバドやティーレマンと並んで、自分の好みにいちばん近いところにいる指揮者であるかもしれない、と気附けた。一昨年2008年秋にユーロスペースで観たラトル=BPOのよる極東ツアーの模様を収めた記録映画を鑑賞した時点で、もっと素直に、虚心坦懐にラトルの音盤を聴き漁っておけばよかったな、と後悔している。
 そんな経緯も含めて今回の〈シネ響 マエストロ6〉の再上映には感謝してもし足りないぐらいだ。加えて、バレエ音楽《くるみ割り人形》はこれまで以上に愛してやまない曲となったし、今後これの全曲版を聴くなら、終映後、興奮のあまり横浜まで歩いたあとでタワーレコードで購入した同じコンビのCDで、とまで思うている(国内仕様のみ、今回の映画と同一ソースの映像を含めたDVDが特典盤に付いている)。
 なお、アンコールには《くるみ割り人形》第1幕から<雪片のワルツ>が演奏された。合唱はベルリン放送児童合唱団。
 これは余談だが、今回のプログラムを眺めていて、ふと、1988年12月、カラヤン最後のジルヴェスター・コンサートを思い出してしまった。あのときの演目はプロコフィエフの交響曲第1番《古典》とチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番(独奏はキーシン)であった。独奏者に若きピアニストを迎えて、プログラムをロシア人作曲家で統一している、というだけの話だが、なんだかラトルめ意識したのかな、とちょっとばかり邪推してしまう。
 歴代のベルリン・フィルハーモニーの首席が得意としてきたロシア音楽を、これ以前にもラトルはジルヴェスター・コンサートに演目に載せていたことがあった。ムソルグスキーの《展覧会の絵》だが、これで脅威の構成力と色彩感とリズム感を見せつけてくれたラトルには、是が非でもカラヤンとアバドがそれぞれ空前の名演を残した歌劇《ボリス・ゴドゥノフ》への挑戦を期待したいものである。
 今回観たラトルの映画についてずいぶんと暑っ苦しく語ってしまった。でも、ご理解いただきたい、それだけ<力(パンチ)>にあふれた作品だったのだ、と。もし三度(みたび)上映されることがあるなら、今度は一人でも多くの方々にご覧頂きたい。そう切望してやまない。◆

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