第0938日目 〈コヘレトの言葉第7章:〈名声は香油にまさる。〉&いつかその内、ラヴクラフト『文学における超自然の恐怖』(学研)を書こう、お披露目しよう、とつぶやいてみる。〉 [コヘレトの言葉]

 コヘレトの言葉第7章です。

 コヘ7:1-29〈名声は香油にまさる。〉
 死ぬ日は生まれた日に優り、弔いの家に行くのは酒宴の家へ行くのに優る。━━これはどういうことだろう。生きている間は気附くことのなかった真実、深い哀しみの底にある静かな歓喜を経験するからだ、ということである。
 賢者も完全な人間ではない。虐げられれば狂い、賄賂をもらえば理性を失うだろう(※)。「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」(マタ6:13)
 コヘレトはいう、曰く━━
 「この空しい人生の日々に/わたしはすべてを見極めた。/善人がその善ゆえに滅びることもあり/悪人がその悪ゆえに長らえることもある。/善人すぎるな、賢すぎるな/どうして滅びてよかろう。/悪事をすごすな、愚かすぎるな/どうして時も来ないのに死んでよかろう。」(コヘ7:15-17)
 また、━━
 「善のみ行って罪を犯さないような人間は/この地上にはいない。/人の言うことを一々気にするな。/そうすれば、僕があなたを呪っても/聞き流していられる。/あなた自身も何度となく他人を呪ったことを/あなたの心はよく知っているはずだ。」(コヘ7:20-22)
 コヘレトは賢者であろうとしたが、実際はそれと縁遠い者であった。悪が愚行であり、愚行が狂気であることを悟ろうとしたが、なにも見出せなかった。死よりも罠よりも苦い女がある、と知っただけだった(ex;箴7,9:18)。1,000人に1人として良い女は存在しなかった。
 「ただし見よ、見いだしたことがある。/神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる、ということだ。」(コヘ7:29)

 引用が多くなりましたが、ここは「コヘレトの言葉」でもいちばん好きな章であります。言い訳めきますが読者諸兄には、混じりけのない聖書の言葉を味わっていただきたい、と思います。
 きっと自分の身に覚えのある箇所に引っ掛かりを覚えるはずであります。わたくしにとってそれは、引用もしたコヘ7:15-17であり同20-22なのです。ここを読んだとき、思わず、嗚呼、という感嘆とも慨嘆ともつかぬ声を知らずあげてしまったことでありました。

 ※ロバート・デヴィドソンが『伝道の書・雅歌』でこの箇所について説明を試みている。「他人が悪いことをしているのを見て、『私は決してあんなことはしない。私はああいった種類の人間ではない』と言うのはたやすいことだ。けれども私たち人間は破壊点とでもいえるものがあって、或る状況に至ったとき自分がそうなるかそうならないかは自分にも分からないのである。古いユダヤの諺に、『死ぬまで自分を信用するな』というのがある。だからこそ、私たちは祈るのであり、祈る必要があるのだ。」(P91 牧野留美子・訳 「デイリー・スタディ・バイブル」 新教出版社 1996)
 デヴィドソンの著書は「コヘレトの言葉(伝道の書)」について書かれた内では、その主張や考えがとてもわかりやすい書物である、と思います。図書館などで探して読んでみてください。



 「コヘレトの言葉」に入る前、リン・カーターの著作について書きました。異様に閲覧者数が多く人気もあるようで、ちょっと戸惑い気味なのですが、ありがたい限りです。
 実はそれを書いているときから気になる一冊がありました。トールキン論ではありません。それ以前にリン・カーターの著作でもない。その一冊は、ラヴクラフト『文学における超自然の恐怖』(学研)であります。
 大瀧啓裕の訳で単行本が出たときに買ったのですが、これの感想を書こう書こうとしている内にどんどん日数が経ってしまいました。「雅歌」が終わったあとで……とは思うておるのですけれど、如何せん結構行き当たりばったりなブログなので、保証の限りではありません。が、遅かれ早かれお披露目する予定なので、気長にお待ちいただければ幸いです。◆

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