第0939日目 〈コヘレトの言葉第8章:〈「人の知恵は顔に光を添え、固い顔も和らげる。」〉&ヘンデル《メサイア》のCDを買いました。〉 [コヘレトの言葉]

 コヘレトの言葉第8章です。

 コヘ8:1-17〈「人の知恵は顔に光を添え、固い顔も和らげる。」〉
 組織内で上手くやってゆくには、上に立つ者の言葉を守り、不快にさせないようにすることだ。上に立つ者、即ち王は気まぐれ。その言葉は絶対。不快なことに固執するな、命令に従うがよい、そうすれば不快な目に遭うことはない。
 神を畏れる人はそれゆえにこそ幸福になり、悪人は畏れぬゆえに幸福にはなれない。が、この道理が必ずしも正しく働くわけではない。神の畏れる人が不幸な目に遭い、神を畏れぬ人が幸福を味わうことがある。空しいことではないか。
 だから、とわたしコヘレトはいおう、だからわたしは快楽を讃えるのだ、と。神を畏れようと畏れまいと、人間にとって飲み食いして楽しむ以上の幸福はない。これが日々の労苦に添えられた、一時(いつとき)の愉悦。
 「わたしは知恵を深めてこの地上に起こることを見極めようと心を尽くし、昼も夜も眠らずに努め、神のすべての業を観察した。まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず、賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟っていない。」(コヘ8:16-17)

 生きていればやり切れなくなることもありますよね。なんでアイツが……とか、やってらんねーよな、とか、まぁ、そんな理不尽なことが、あれやこれやと。空しいよね。そんなことを、本章の前半では語っています。正直、勤め人の身には、応えるものが若干ありますけれど。
 だから、というのですね、だから生きている間は(身を持ち崩さぬ程度に)飲み食いして快楽を経験して楽しみましょうよ、と。限りある人生、少しでもバラ色に近づけようじゃん? 「日々の労苦に添えられた、一時(いつとき)の愉悦」がなかったら潰れちゃいますよね。
 今も昔も人の生きる時代はなべて「人間が人間を支配して苦しみをもたらすような」(コヘ8:9)時代なのです。



 本日05月09日はアイスクリームの日。アメリカの詩人ウォーレス・スティーヴンズの詩、即ち「アイスクリームの皇帝」“The Emperor of Ice-Cream” を思い出します。全文を知りたい方は亀井俊介・川本皓嗣編『アメリカ名詩選』(P140-43 対訳 岩波文庫)を、部分的でも構わなくて序に20世紀の吸血鬼小説の傑作を堪能したい向きにはスティーヴン・キングの『呪われた町』(集英社文庫)をお奨めします。
 今日(昨日ですか)タワーレコードで棚をあちこち見ていたら、ヘンデルのオラトリオ《メサイア》のCDがありました━━しかも、懐かしい演奏で! 既に何年か前に或るシリーズの一枚として出ていたその音盤が、更に今回1,000円を切るバジェット・プライスでお目見え。アンドルー・デイヴィス=トロント響=トロント・メンデルスゾーン合唱団、キャスリーン・バトルやサミュエル・レイミーらが独唱を担当する1986年録音のEMI盤がそれです。バトルやレイミーの声を聴いたのは、この《メサイア》が初めてだったなぁ。
 これを書きながら聴いているのですが、ああそうだ高校生の頃に聴いてこれをきっかけにクラシック音楽就中声楽に嵌ったんだ、と……最初に聴いた演奏の感覚って、何十年経っていてもしっかり覚えているものなんですね。あの時代の自分を取り巻いていた空気や当時の様々な気持ちが、こうして耳を傾け音楽がスピーカーから流れ出た途端によみがえってきました。
 わたくしにとって《メサイア》のスタンダードはこのA.デイヴィス盤であり、これをようやく押さえた以上は安心して他の演奏家の《メサイア》をあちこち聴き耽ることができます。記憶や印象という漠然としたものではなく、いつでも最初の感動的な出逢いを果たしてこれが自分にとっていちばん良い演奏だと断言できる基準が、こうしていつまでも手許に置いて確認することができるようになったのですから。何人がどうこういおうとも、この録音はわたくしにとって永遠のマスターピースに他なりません。
 ドストエフスキーの『悪霊』は……、いや、これは明日の話題に取っておきましょう。
 母の日を今日月曜日と勘違いしていたさんさんかがお送りしました。◆

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