第1017日目 〈イザヤ書第35章:〈栄光の回復〉with厄介なことだ。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第35章です。

 イザ35:1-10〈栄光の回復〉
 イスラエルはいま苦悩と悲しみのなかにあり、その栄光は輝きを失っている。が、喜べ、栄光の回復する日が来る。諸国の民はわれらの主の栄光を見、われらの神の輝きを見るだろう。
 さあ、その弱った手に力をこめ、いまにも屈せんばかりの膝に力をこめよ。そうして、なお心おののかせる人々にいうがよい、雄々しくあれ、恐れるな、と。悪に報いる神が来て救ってくれる、と。
 「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。/そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。/口の利けなかった人が喜び歌う。」(イザ35:5-6)
 ……栄光が回復するとき、荒れ野には水が湧き、川が流れるようになる。砂漠は湖となって、水の湧き出でる場所となる。そこは葦やパピルスが茂る場所となる。
 「そこに大路が敷かれる。/その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。/主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。/そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。
 解き放たれた人々がそこを進み/主に贖われた人々は帰ってくる。/とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。/喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。」(イザ35:8-10)

 なんと感動的な章でしょうか! いまの自分には胸の底にまで染みこんでくる、一種の救いともいえる章であります。もとより本章は、聖書全体を通じて最も偉大な章の一つとされる由。第32章から続いたゆるやかなブロックは本章を以て一つの区切りとする。それはメシア預言である以上に、黙示録後に現れる第二のエルサレム、その後の祝福に満ちた世界の訪れを謳っているようにさえ思うのでありました(ex;黙21:1-2,22:3-4)。
 でも、そういう話を抜きにしても、心おだやかにしてくれ、心高鳴らせる希望が、本章にはある。そんな、喜びの感情にあふれた章といえますまいか。わたくしは本章が大好きです。正直なところを申せば、全文を引いてそれで良しとし、感想も付けずにいようか、とまで考えた程なのであります。



 病院で肌の具合を診てもらったところ、またしても原因不明の蕁麻疹と判断されました。以前もそうだったな……、この原因不明というのがいちばん厄介である。なにに気を付ければいいのか、食事も含めての話だが、わからないものね。ともあれ、近くの調剤局で塗り薬と飲み薬を処方してもらい(まだ保険証ができる前だから10割負担になっちゃったよ!)、てくてくと下を向いて溜め息をつきながら帰宅。ちょっと休んでから所用あって、付き添ってもらい区役所へ。
 役所近くのスーパーで買い物をしていても、なにを買っていいのかちょっと迷う。鯨のベーコンは諦めた。代わりに「かずべ」を買って煮付けにした。けっこう美味。煮たりするとやわらかくなって、骨も食べられて取っても良い味。他は野菜中心のメニューになったけれど、これがいちばん健康的な食事内容なのかもしれないね。野菜、大好き。
 ……この原稿を仕上げながら山田一雄が東京吹奏楽団を指揮した吹奏楽のためのオリジナル曲を集めたCDを聞いています。先日ようやっと購入したのですが、目当ては勿論、ジールマンの《チェルシー組曲》。が、その前に、ワルターズの《ジャマイカ民謡組曲》って面白いですね。「バナナ・ボート」の旋律が!◆

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