第1137日目 〈小説:ステップ・バイ・ステップ 第1回〉 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]

 初秋の黄昏刻、用事を済ませて東京から帰ってきた風間暁雄氏は、自分を呼ぶ声と小走りな足音で歩みを停めた。その声の主が三女の聖沙生(みさき)であるのは、振り返らずともさすがにわかった。
「お父さん!」
 ブレザーの制服姿で肩まで伸ばした栗色の髪をたなびかせて、聖沙生が走り寄ってきた。その両頬が薄紅を散らしたように染まっている。風間氏を見上げる瞳に、父親の背後へ沈みかけた夕陽の光彩が映りこんでいた。
「お帰り」と、聖沙生は言った。八重歯のこぼれる、子供の頃と変わらぬ笑顔で。
 風間氏は「ただいま。――お帰り」いささか間の抜けた返事をして、ふと気が付いた。いつも一緒にいる相原香歩が、どこにも居なかった。「今日は香歩ちゃんと一緒じゃないんだね」
 そう訊ねて、口をつぐんだ。娘の横顔に淋しげな影が射したのを見たような気がしたからだ。訊ねてはいけないことだったのかもしれない。その場を取り繕う言葉を探したが、それは聖沙生の返事(哀しみのこもった口調と風間氏には思えた)で中断された。
「……今日はお休み。風邪ひいたんだってさ」
 オリーブの木が両側に植えられた石畳の歩道に、父と娘の影が長く伸びている。聖沙生は何気なく肩越しにそれを見やったが、すぐにまた視線を戻した。
「そう……。淋しいね」
「……うん。――ねえ、このままお見舞いに行ってもいいかな?」
 聖沙生へ視線を向けると、目が合った。駄目かな、とその瞳は語っている。そして、当然返ってくる父の答えも予期している瞳であった。
「いまから? 別に構わないけど、もう夕飯刻だから、あんまり迷惑にならないようにね」
「わかってる、ってば。もう十七なんだからさ、いちいちそんなこと言われなくたってわかってるよ」やや声を荒げて聖沙生が言った。
 反抗期なんだな、と氏は感じた。もうそんなに大きくなってたんだな……。なんだかどんどん子供たちに置いてゆかれるような気がするよ。
 刹那の間の後、
「どこかへ行ってたの?」そう聖沙生が訊いてきた。居心地の悪い思いを、彼女も感じているようだった。
「出版社へ原稿を届けに行ってたんだ。ついでに久し振りだったから、神保町にも寄ってきた」
「そうか、書いてた小説、終わったんだもんね」
 言いながら聖沙生は頷いた。「この前、プレゼントしてくれたやつなんでしょ、新作って?」
「ああ。聖沙生は――」
「私はちゃんと本になったのを読むよ。作家の娘だから、って特別扱いされるのも嫌だし」
「そんなものかい?」
「うん。――少なくとも私はね。でも、逢沙生(あさき)は半分徹夜して読み耽ってたよ」
「あれ、全部読んだの、逢沙生? 一晩で?」
 聖沙生が、うん、と頷くのを見て、氏は溜め息をついた。今日出版社へ渡した新作は、原稿用紙に換算すれば七〇〇枚近くある長編である。それをわずか一晩で……。彼は逢沙生が――聖沙生の双子の姉が、私家版として製本した新作を読んでいる姿を想像した。自然と氏の口許に微笑が浮かんだ。
 聖沙生が急に立ち止まった。父の腕を摑んで、停まれ、とも促して。
「どうした?」
「……逢沙生のことなんだけどさ」と聖沙生が、石畳に視線を落としながら言った。
 その言い方に、この双子がまだ小学生だった自分のことを思い出した。他ならぬ聖沙生から、逢沙生がこれまでイジメに遭っており、今日そのイジメっ子と喧嘩して勝った、と聞かされたときのショック。目の前が真っ暗になり、足許がふらついた。娘が――次女が発していたかもしれぬSOSを見逃していたであろう後悔と自責に苛まされ、妻とその夜遅くまで話し合った諸々のこと。その前後からは友だちもでき、徐々に明るくなり、スポーツにも打ちこむようになったことで、ずいぶん救われた気持ちになったものだった。その逢沙生について、いままた聖沙生がなにかを告げようとしている。悪いことでは、嗚呼、どうかありませんように。
「最近おかしいんだよね。学校での行動が」
「……おかしい、って?」
 努めて冷静を装いながら訊ねた。でも、どうあっても動揺は隠しきれない。
「帰りのホームルームが終わるとね、愛ちゃんとすぐに図書室に籠もっちゃうんだって」
 愛ちゃん――逢沙生にできた初めての友だち、斎宮(いついのみや)愛は風間家の近くにある神社の神主の一人娘だった。そして目下の所、唯一無二の親友であると共に、大切な恋人。まだ決して同性愛者の結婚が認められているわけではないが、氏はこの二人さえ本気ならそうさせてあげてもいいかな、と(最近はかなり真剣に)考えていた。――まあ、もっとも妻は猛反対しているが。
 その愛と図書室に籠もる。――だが、
「それって、なにかおかしいの?」
 聖沙生は頭を振った。「図書室に籠もること自体は別にいいの。逢沙生にしてみれば、カラオケにいるよりも自然なことだから。ただね、図書室で愛ちゃんと一緒にいるときの様子がおかしいのよ」
 彼は黙りこくったまま、娘の話を聞いていた。ややあって後、聖沙生に続けるよう促した。
「いつも隅っこの方で固まってね。なんか秘め事でもするような雰囲気なんだけど、愛ちゃんがさ、怖いくらいの表情で腕組みして、逢沙生はうなだれて小さくなってるんだって。――私は直接見たわけじゃないけど、図書委員やってる同じクラスの子の目撃証言」
 はあ、と父娘はほぼ同時に溜め息をついた。
「またいじめられているのかな――って、愛ちゃんが相手じゃ、それはないか」
「たぶんね。でもね、その子が言ってたけど、いつもの仲良しカップルの面影なんて、これっぽっちもなかったみたい」
「そう……」と言ったきり、また黙りこむ氏。
「誰かにずっと相談しようと思ってたんだけど、誰にしたらいいのか見当がつかなくってさ。いま、お父さんに話せてよかった」
 聖沙生は膝で鞄を、ぼんぼん、と蹴りながらそう言った。風間氏の顔にとまどいと歓びの色が同時に浮かんだ。
「ありがとう。そう言ってもらえるとうれしいな」
 今度は聖沙生が恥ずかしげに面を伏せた。この数年、こう面と向かってなにかを喋るのを避けていたような気がしたからだ。
「しばらくこのことはさ、二人だけの秘密にしておこうよ」
 そう父は提案した。娘はちょっとの間もためらわずに頷いた。
 やがて二人は相原香歩の住むマンションのエントランスのそばへ来た。立ち止まると聖沙生は、
「じゃあ、私、寄ってくから」
 と言って、開いたエントランスの自動ドアの向こうへ姿を消した。
 風間氏は、日増しに美しくなってゆく娘にしばし目を奪われ、後ろ姿を見送った。再び家路を辿り始めたものの、心の中は晴れなかった。
 ――逢沙生と斎宮愛の間に何があったのだろう?

 知りたくはあったが、訊いてはいけない気がした。それが事実だと、娘の口から告げられるのが怖かったからだ。
 夕食後、風間氏は新作を仕上げた虚脱感と逢沙生の身を案じて暴走しかける心配に気分が悪くなり、妻にそっと断って、早々に寝室へ引きあげた。豆電球の小さな灯りが、室内をぼんやりと照らしている。長い時間、天井の一点を見つめていたせいか、眼差しはうつろになり、目蓋が落ちかけていた。枕元に置いた時計が時を刻む音が、やけに耳に障る。まるで子守歌のように単調なリズムは、いつしか眠気を誘い……
 ……ふと、目が覚めた。いつの間にやら眠っていたらしく、時計の針はさっきより一時間近く進んでいた。妻か娘の誰かがその間に来たようで、薄手の布団が掛けられている。隣のベッドに視線をやったが、まだ妻はいなかった。
 風間氏は溜め息をついて、かざした掌を額にあて、次女の名前を呟いた。「逢沙生……」
 脳裏にあの子が小学生だった時分の光景が浮かんできた。彼女が初めて斎宮愛を家に連れてきたときの光景だった。まだ逢沙生がイジメに遭ってると知らず、友だちらしい友だちができて良かった、と単純に喜んでいた頃。あのときそれを知っていれば、と思うが、知っていたからどうなるというものでもない。子供の社会のいじめとは逃げ道が少ないだけに、夢想だにできぬ残酷な性質を持っている。
 他ならぬ風間氏が小学生だったとき、イジメに遭っていた一人だった。こんな変なところまで似なくたっていいのに……。氏は独りごちた。逢沙生のことを思っていたら、小学生時代のとりとめのない記憶が様々に浮かんできた。目を閉じてそれを反芻してノスタルジックな気分を味わっていると――
 ――「パパ?」
 ビクリとして目を開け、ベッドの傍らを見ると、四女の絵里とそれに付き添うように逢沙生が、そこにたたずんでいた。暗くて表情はよくわからないが、どうやらお見舞いに来てくれたらしい。
「気分、良くなった?」と絵里。
 頷きながら、氏は「ああ、絵里の顔を見たら元気になったよ」と言って、四女の頭を撫でた。ちょっと嫌がる素振りをして見せた絵里を見て、この子もいつか父親離れをするんだろうな、と淋しくなった。
 背後の逢沙生が、「なにか果物とか持ってこようか?」と訊ねた。「それとも、水の方がいい?」
「いや、いまは大丈夫。ありがとう」氏はそう言うと、そっと微笑んだ。
「今日は絵里がパパを看病する」
 唐突に絵里がそう宣言した。逢沙生が笑いをこらえるように、口許を掌でおおった。それを察した絵里が後ろを向いて、なによぉ、と頬を膨らませた。
「絵里、パパはちょっと疲れて休んでいるだけだから、平気だよ」そう風間氏は言った。「本当に病気になったときに頼むよ、ね?」
「じゃあ、仕方ないや。でもパパ、早く良くなってね」
 だから病気じゃない、ってのに。逢沙生がそんな顔で妹を見、父に視線を移した。目があったとき、彼女がなにかを訴えようとしているように感じたのは気のせいだっただろうか。――その後数日間、氏はずっと、この夜の逢沙生の表情が気になっていた。それが解決し、胸を撫でおろしたのは三日後のことである。
 でも、このときまだ氏は悩むばかりだったから――
 それから数分、三人は楽しくお喋りした。やがて氏がこらえきれずに欠伸をすると、逢沙生は絵里を連れて両親の寝室から出てゆこうと、父へ背を向けた。その後ろ姿に、風間氏は思わず声をかけた。「逢沙生」
 なあに、と振り返った逢沙生に氏は、ただ「悩みがあったらいつでも言ってよ」とだけ言った。彼女は不思議そうな顔だったが、うん、と頷くと、扉を閉めた。
 風間氏は緊張の糸が切れたような気持ちで、溜め息を洩らした。
 ――イジメか……なんで逢沙生ばっかり……。

To Be Continued


共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。