第1139日目 〈小説:ステップ・バイ・ステップ 最終回〉 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]

 その夜、妻と末娘二人、絵里と玲霞の作った食事を済ませると、氏は適当に用事を作って書斎へこもった。一人になると風間氏は自分が、いまの逢沙生と同じ年齢だった頃を倩思い返していた。小説を書いて生活してゆきたい、と初めて考えたのが、それぐらいの頃だった。
 逢沙生が愛を選んだことからわかるように、特にまだ趣味で小説を書いているアマチュア作家は自作の最初の読者に、往々にして身近の人物を選びたがる。
 風間暁雄の場合は、高校時代に隣の席に坐っていた男であった。なにがきっかけだったのか、まったく覚えていないが、これまでに書いた小説――正確に言うなら本や映画のダイジェストに毛が生えた程度のものでしかないショートショートが詰まったノートを二冊、見せた。自分の内面を曝した羞恥と後悔、ささやかな自負を味わいながら身を固くして坐っている氏の前で、その男は必要以上にじっくり時間をかけてそれを読んでいた。一時間以上が経ってようやく顔をあげた男は、興奮を抑えきれぬという様子で、面白いぜ、もっと書けよ、と励ましの言葉をかけた。
 それがお世辞だとわかってはいたが、物語を紡ぐ楽しさを少し知りかけ、創作の甘い毒を一度味わった氏は男の言葉に舞いあがり、心弾ませ翻然と、ときには苦心しつつ、次から次へと、徐々に読むに耐える小説をものしていった。その時期の所産こそ普段は書斎の片隅に眠る十五冊の大学ノートで、二ダースかける十倍の量のショートショートと六編の(どうにか完成させられた)短編小説、そして未完成の長編小説を一編が、高校を卒業するまでの二年半に残しされた。それは現在に至るまで、作者以外はなんぴとたりとも一読の機会を得ぬまま、静かな眠りに就いている。
 最愛の凉子夫人さえ読むことのかなわないそのノート群を、いま氏は机の上に置いてぼんやりと眺めていた。件の男とは、高校を卒業してからもしばらく休みのたびに会っていたが、或る年の或る日、ちょっとした意見の食い違いが原因で取っ組み合いの大喧嘩をし、爾来、顔を合わせることはおろか年始の挨拶さえも欠くようになったが、ふと、あの男のことを意識にのぼすのが実に約三十年ぶりであることに気附いて、愕然とした(自分でもそれは少々意外だった)。
 あの男がいなかったら、と今更ながら思う。もしかすると小説家にはなっていなかったかもしれない。妻にも会えなかっただろうし、子供たちもこの世にいなかっただろう――そう考えて思わず身震いがした。
 でも、なにはともあれ、小説を書いている身にとって、すぐそばに第一の読者がいるのはいいことだ。自分に嘗てはあの男が、いまでは妻がいるように、逢沙生には愛がいる。負けず劣らず物語が好きな愛を最初の読者に選んだのは、逢沙生にとって最良の選択であっただろう。
 だが、小説を読ませて返ってくる言葉は決して甘いものであったり、心を浮き立たせるようなものばかりではない。高揚した気分をぺちゃんこにしてくれる厳しい言葉もあるし、中傷紛いの脅迫も理不尽な言いがかりめいたものもある。逢沙生がそれらへ謙虚に耳を傾け(適当に無視したりして)、創作の喜びをいつまでも失うことなく物語を紡いでいってくれればいいな……。
 なによりも、氏はうれしかったのだ。平日だろうと休日だろうと構わず家にいて、多くの時間を書斎で架空のお話相手に格闘し、家族とあまり過ごせていないような疑心暗鬼に襲われ、子供たちは果たして父親の仕事を理解してくれているのだろうか、と不安に駆られるときがある。だが、その子供たちの中に自分の生業へ触手を伸ばしてきた者がいる。年若きライバルの出現に驚くというよりも、子供たちがちゃんと父親の背中を見て育ってくれていたのだ、という喜びの方が遥かに優った。取り敢えずは、ほっ、と一息、というところだ。
 机の上にある(家族で撮った最近の写真を収めた)写真立てに手を伸ばしかけたときだった。書斎の扉を叩く音がした。
「はあい?」
「私。……入っていい?」
 父の返事を聞くよりも前に、扉を開けて、逢沙生が顔を覗かせた。

 逢沙生がひょっこり顔を覗かせた。ああ、主役が登場したぞ、と風間氏は口の中で呟いた。
 彼女がいったいなんの用で現れたのか、一々推理するまでもない。出来たのかな、でも、黙っておこう。そう心に決めてなにも言わず、茶封筒を両手で抱きしめながら書斎へ入ってくる娘を見つめた。あの封筒の中身がきっと……。
 書棚の前の踏み台に腰をおろして、逢沙生は大きな瞳をきょろきょろさせてまわりを眺め渡している。場所が場所なら挙動不審で尋問されるのは間違いないだろう。
「この本、面白い?」
 彼女は赤い表紙の本を手にした。シャーロット・ゲストの『マピノギオン』。妻との買い物途中に寄った本屋でこれの新訳に出会ったときは興奮のあまり、しばらくその場に立ち尽くしてしまった。そして気が付くと、この本をレジに持ってゆき、財布から千円札数枚を出していた……もちろん、妻が呆れ顔でこちらを見ているのは、百も承知だった。
「逢沙生の気に入りそうな内容だと思うな。イギリスのウェールズ地方の神話や伝説をまとめた本でね。――読みたければいいよ、持ってって」
「いいの? じゃあ、借りるね」逢沙生は開いた本の頁に視線を落とした。が、眼球は動いていない。視線をさまよわせているだけで、文章を追っているわけでも挿絵を鑑賞しているわけでもなかった。傍目に見ても、心ここにあらず、という様子である。
 なにか用事じゃなかったの、と訊いてみようとしたが、実際にどういえばこの子の気持ちを傷つけずに済むものかわからなかったので、口を開いてもためらいばかりが残った。
「あのさ、お父さん――」
「うん?」
 氏は正面から逢沙生を見ることなくそう言った。
「私、あの……」
 いよいよ来たか、と父は構えた。
「あのね、えっと、……小説」
「小説?」
 遂に本題へ入るぞ、そう風間氏は口の中で呟いた。
「う、うん、小説。――……この前読ませてくれた小説って、いつ本屋さんに並ぶの?」
 ずっこけた。肩すかしを喰らった気分だった。それでもどうにか立ち直り、「十一月の下旬か十二月の上旬じゃなかったかな。でも、どうして?」
「感想をね、愛ちゃんたちに話したら、本になったら絶対読む、って言ってくれて、じゃあいつ出版されるのか訊いてくるね、って約束したの。だから」
「あ、そう。うれしいな。気に入ってくれるといいけど」
「大丈夫だよ。だってすごく面白かったもん」
 それからしばらく間が開いた。実際は一分もなかったろうが、父と娘にはもっとそれ以上の時間が流れたように感じられた。こんなときは得てしてそんなものだ。
「ところで……それだけじゃないよね?」
 とうとう我慢できなくなって訊いた。
「あ、うん……」と言って逢沙生はうつむいた。本はもう閉じられている。茶封筒を抱きしめる力が少しだけ強くなったようで、それが外側へゆるやかに反った。
「その……えーっと……。私、ね、小説……みたいなのを書いたの。お仕事一段落してたら、その、読んでほしいな、なんてね、思ったんだ……けど……あ、やっぱり今度、にする」
 やわらかく甘やかな声で途切れがちにそう言うと、彼女は踏み台から立ちあがって扉の方へ歩いていった。
 それを氏は、「逢沙生」と呼び留めた。娘の足が停まり、背筋が心持ち伸びたような気がする。「初めて書いた小説を人へ読ませるときは、不安でいっぱいだよね。お父さんもそうだったよ。――でも、よかったら読ませてもらえるかな?」
 それに導かれるように、逢沙生は父のすぐ近くへ歩み寄り、おずおずと小説の入った茶封筒を差し出した。
「これ……」
 風間氏は娘からそれを受け取って、中の原稿を取り出した。一センチ弱程度の厚さのプリンター用紙に印字された原稿だった。「ありがとう。じゃあ、読ませてもらうよ」
 逢沙生は居心地悪そうにその場に立ち尽くしていた。
「ここにいて、いいかな?」と彼女が訊いた。
「ああ、いいよ」
 逢沙生は再び踏み台へ坐りこむと、掌を合わせてうつむいた。その姿を視界の端で認めながら、彼女の書いた小説を丁寧に読み始めた。
「バロンの物語なんだね」と風間氏は言った。バロンとは風間家で長く飼われている種類不明の、ぬーぼーとした風貌をした犬の名前である。逢沙生が頷くのを、ちら、と横目で見やりながら、「僕も一度書こうとしたんだけど、他に書かなくちゃならないのがあったんで、結局手を着けられなかったんだ……」
「え、ホント? どんなお話だったの?」
「迷子になった飼い主の男の子を探しに行ったら自分が見知らぬ街に来てしまってね。しょんぼりしながら道を歩いていると、よく知っているお巡りさんに拾われて、例の男の子が迎えに来てくれた、っていうお話」
 逢沙生は小さく笑いながら、
「いまからでも書けばいいのに」
 すると父は頭を振った。苦笑の影に諦めにも似た色が刹那と雖も射したのを、逢沙生は見逃さなかった。ともあれ、それ以上訊ねるのは控えた方がよさそうだ。
「これを書くきっかけ、ってあったの?」
 ややあって風間氏は訊いた。
 逢沙生はちょっとの間、視線を天井に向けてなにやら思いを巡らす表情になったが、すぐに向き直り、
「一年ぐらい、もうちょっと前かな。確か日曜日だったと思うけど、朝、ちょっと早くに目が覚めちゃって、読みかけだった『北欧神話』を読んでたの。そうしたらバロンがベッドによじのぼってきてね、布団の上で丸まって、じーっ、とこっちを見てたの。それがなんだか、なにかを伝えたい目に見えたんだ。すぐにバロンは部屋を出てったけど、なんだかずっと気になっちゃって……いろいろ考えてたら、このお話が出来てた。その日の夕方に、愛ちゃんに、『私、小説書く』って宣言したんだけど、仲々思ったように書けなくて……。結局、書き終わるのに一年もかかっちゃった」
「そうか……でも、よく完成させたね。それだけでも立派だよ」
「お父さんと愛ちゃんに読んでほしかったし、バロンを見ていると場面やこれからの展開が自然に見えてくるの。それに――」
「それに?」
「いま、この物語を書けないと、私、もうこれからなにも書けない、ってそんな気がしてならなかった。まるで誰かが私に命令して、操っているみたいだったな」
 氏はなにも言わずに頷いた。創作する者なら誰もが必ず経験するあの霊的な〈力〉を、彼女も処女作(と言っていいのだろう)から確かに感じて、物語を綴っていたのを知ったからだ。
 それきり、逢沙生は押し黙った。外では風が出てきたようで、窓のシャッターが音をたてて揺れていた。
「バロンも喜んでるんじゃないかな」
「あ~、どうだろう、それは。今朝もね、お前を主人公にした物語を書いたんだよ、って言ったら、しばらく私を見てたかと思うと、ふん、って鼻息鳴らして和室の日溜まりの中で寝そべっちゃったんだよ、バロン」
 楽しそうに話す娘の様子につられて、父も笑みをこぼした。
 ――風間氏は娘の紡いだ物語に心躍らせる一方でその出来映えに感嘆し、逢沙生は初めて書いた小説を父が読み終え、感想を口にするのをじっと待った。
 書斎に居心地のよい空気を孕んだ静寂の時間が訪れ、ゆっくりと流れていった。◆

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