第1229日目 〈エゼキエル書第19章:〈君候たちの悲しみの歌〉withラトル、勇退。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第19章です。

 エゼ19:1-14〈君候たちの悲しみの歌〉
 イスラエルの君候たちのための、悲しみの歌;
 お前たちの母を雌獅子に喩えよう。
 彼女は子らのなかから一頭の子獅子を選び、若獅子へと育てあげた。が、その若獅子は力に驕って無差別に獲物を狩り、人々を餌食とした。そのために仕掛けられた罠にかかり、エジプトへ連れてゆかれた。
 諦めて彼女は再び一頭を選んで育てた。が、その若獅子も力に驕り、人々を襲った。加えてかれらの町を荒廃させた。城郭も破壊され、その咆吼に人々は戦慄した。然うして遂に罠にかかった若獅子は、バビロンへ連れてゆかれたのである。咆吼がイスラエルの家に響くことは、もうなかった。
 お前たちの母を水辺の園に植わるぶどうの木に喩えよう。
 木は生育して実を結び、枝は支配者たちの杖とされた。木は雲に届くかと思うぐらいに高くなり、たっぷりと伸びた枝という枝のせいもあって、一際目立ち、栄え、豊かに見えた。
 しかし、主の怒りが轟くと、ぶどうの木は根っこごと引き抜かれて大地へ倒された。枝も実も東風に吹かれ、炎に焼かれた。いまやぶどうの木は荒れ野の乾いた土地に移された。もうこの木の枝が支配者たちの杖となることはない。
 ――この歌は悲しみの歌。悲歌として歌われた。

 東風、とはおそらく東方の肥沃の土地から迫り来たるバビロニアであろうか、と考えます。本章あたりからイスラエルの命運を握る(握った)国家として、エジプトとバビロニア(バビロン)が併記して語られる章が目立ってきます。
 このような詩/章は苦手です。どう捉えてよいのか、まるでわからない。ノートの方法についても然り。平日は仕事帰りにたいがいスターバックスに籠もってこの作業をしているのですが、いざ対峙してみても疲れた頭はまるで動いてくれず、やがて眠気は襲い来たり、それでもどうにかこうにかして一行一行読んでゆくことに隔靴掻痒の感を強く抱き、辛うじて終わった暁には徒労さえ覚えることたびたびなのは、斯様に韻文のスタイルを取った預言やそれを扱った章であることが専らだからであります。
 最近、岩波やティンデルの旧約聖書注釈本を図書館から借り来たる機会もめっきりなくなり(出不精になったわけでは……)、聖書にまつわる本を読むことも少なくなった。実を申せば机上にあるハーレイの本や辞典などにも目を通す時間が減少したことで、自分の聖書離れが知らず進行しているように思えてなりません。こんなことではいけませんね、そんなことだから時折の中断(休載?)を挟んでなお平然としていられる。嗚呼!


 ラトル、BPO首席を2017/18年シーズンを以て勇退。来るべき時が来たか……。残り1シーズンでどんな音楽を聴かせてくれるか、われらは固唾を呑んで見守ろう。◆

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