第1230日目 〈エゼキエル書第20章:〈エジプトからの救いと背信〉with光文社文庫版『失われた時を求めて』最新刊、やっと出たよ……。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第20章です。

 エゼ20:1-44〈エジプトからの救いと背信〉
 捕囚の地に来て7年目の5月10日、長老たちが主の御心を問うためにやって来た。そのとき、主の言葉が臨んだ、お前たちが尋ねてもわたしは答えない、と。
 人の子よ、イスラエルの家にこう語りなさい。往古、わたしがイスラエルを選んだ日、わたしはヤコブの家の子孫に誓い、かれらを奴隷の地エジプトから連れ出し、地上で最も美しい場所、即ち“乳と蜜の流れる土地”カナンへ導く、と約束した。エジプトをあとにしたイスラエルの家は長く続く荒れ野での生活と彷徨に耐えかね、不満を募らせた。その間、わたしはかれらに律法を与え、また、安息日を守るよう約束させた。が、それは遠からずして破られ、かれらはわたしを忘れて偶像崇拝に耽り、かつわたしを汚した。わたしは憤りをかれらの上に注ぎ、滅ぼし尽くそうとした。が、「わが名のために、わたしがイスラエルを連れ出したときに見ていた諸国民の前で、わが名を汚すことがないようにした。」(エゼ20:14)しかし、わたしはかれらに、お前たちを約束の地に導き入れはしない、と告げた。わたしの名を汚し、わたしの律法に背いたがために。これは、かれらを憐れみ、滅ぼさなかった代償である。
 わたしは荒れ野でかれらの子供たちに語った。わたしの律法を守り、安息日を聖別し、偶像を崇めてはならない、と。これをわれらの間の印とし、お前たちの神なる主がわたしであることを知れ、と。しかし、かれらもまた親の世代同様にわたしに背き、わが名を汚し安息日を守らず、偶像を崇めた。わたしはかれらの上に憤りを注ぎ、かつ滅ぼそうとしたが、諸国民の前でわが名を汚すことになるので、それは思い留まった。代わりに、「わたしは荒れ野で彼らに誓い、彼らを諸国民の間に散らし、諸国に追いやると告げた。」(エゼ20:23)そうして、「良くない掟と、それによって生きることができない裁きを彼らに与えた。」(エゼ20:25)
 イスラエルの家に告げよ。お前たちの父祖はわたしを裏切り、冒瀆した。お前たちは父祖の歩みに従って自分を汚し、偶像崇拝を行い、姦淫に耽った。そんなことをしているお前たちの求めに、どうしてわたしが答えられようか。わたしはお前たちの求めには、決して応じない。
 お前たちは憤りゆえに諸国民の間に散らされ、諸国に追いやられる。それは実行される。しかし、そこで終わるわけではない。わたしは必ず、強い手と伸ばした腕とあふれる憤りを以て、お前たちを諸国民のなかから連れ出す。わたしはお前たちを諸国民の荒れ野に導き、顔と顔を合わせてお前たちを裁く。かつてお前たちの父祖をエジプトの荒れ野で裁いたように。
 「わたしは、お前たちを牧者の杖の下を通らせて、契約のきずなのもとに導く。わたしはお前たちの中からわたしに逆らい、背く者を分離する。わたしは、彼らを寄留の地から連れ出すが、彼らはイスラエルの土地に入ることはできない。そのとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」(エゼ20:37-38)
 「お前たちイスラエルの家よ、主なる神はこう言われる。おのおの自分の偶像のもとに行き、それに仕えよ。その後、お前たちは必ずわたしに聞き従い、二度と偶像に贈り物をささげて、わたしの聖なる名を汚すことはなくなる。わたしの聖なる山、イスラエルの高い山で、と主なる神は言われる。
 そこにおいてのみ、この地にいるイスラエルの家はすべて、こぞってわたしに仕える。そこでのみ、わたしは彼らを受け入れ、その所で、献げ物と聖なる最上の供え物を求める。
 わたしは、宥めの香りと共に、お前たちを受け入れる。わたしが諸国の民の中から連れ出し、散らされていた国々から集めるとき、わたしは諸国民の前で、お前たちに自分を聖なる者として示す。
 わたしが、先祖に与えると誓った地、イスラエルの土地に導き入れるとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。その所で、お前たちは自分の歩んだ道、自分を汚したすべての行いを思い起こし、自分の行ったあらゆる悪のゆえに自分を嫌悪するようになる。
 お前たちの悪い道や堕落した行いによることなく、わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき、イスラエルの家よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」(エゼ20:39-44)



 なんと充実し、読み応えある章でありましょうか!? 近年稀にみる手応えを感じたことも手伝って、思わずノートにも力が入り、最後の6節にわたる長い引用も思わず手打ちで書き写しちゃいましたよ。……とは、やはり少し大袈裟であったか。
 それはさておき。
 本章の読書中、出エジプト記からヨシュア記に至るまでのカナン入植前史が、ふわぁり、と脳裏に浮かんだ人も多かったのではないでしょうか。メリバ、ミツパ。シナイ、金の仔牛像。モーセの怒り、モーセの悲しみ、モーセの死。そうして、ヨシュアの辛苦。これらが走馬燈のように甦ったのも仕方ありません。なぜなら、旧約聖書中、最もドラマティックかつ誰もが知っている歴史をなぞっているから。その親近感ゆえ、わたくし自身も読み進められた、という気持ちが強いですね。或る意味、ここを楽しんで乗り切ることができたからこそ、いまに至るまで不平も募らせつつ(ん?)、読んでいられるのでありましょう。
 本章は読んでそのままの章です。特に比喩がばんばん使われている内容であるわけでも、主語も視点もはっきりしない語りがされている章であるわけでもない。さんさんか的には「あれ、珍しいな」と思わず拍子抜けしてしまうぐらいのあっさり感が堪らない一章でありました、と告白しておきます。



 ようやく光文社文庫版プルースト『失われた時を求めて』第3巻が刊行。長かった……。
 岩波文庫版の刊行スピードが早いのか、或いは光文社文庫版が単に遅滞しているだけなのか、それについてはなんとも申しあげにくい。
 が、本書の性質から考えて、光文社文庫版の刊行スピードがいちばん相応しいのかな、とも思う。むろん、遅延を讃仰しているのではないから勘違いなさらぬよう。
 さて。そろそろ重い腰をあげてプルーストの世界に浸るとするかな。◆

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