第1268日目 〈ヒルティの言葉 その6〉 [日々の思い・独り言]

 浮ついたしあわせを享受する人は仕事に手が着かず、地に足の着いたしあわせを得た人は仕事に精を出す。仕事の結果は自ずと明らかであろう。これを別の角度から見ると、憂いと罪を孕んだしあわせか、揺るぎなき愛と尊敬に根差したしあわせか、ということになる。ようやくそれを真(まこと)と思えるようになったのは、恥ずかしながらここ数年のことだ。まぁ、おいらにも色々あってさ。
 「ダニエル書」の原稿をいつものスターバックスで書いたあと、<伊勢ブラ>ならぬ<伊勢ぷら>していたら、なぜだか唐突に、第1268日目のブログは久しぶりにヒルティの言葉について書こう、と思い立った。そういえば一昨日読んだ『幸福論』第2部に良いことが書いてあったな。たしか、こんな風なことだった、――
 「(憂いに対する手段として)最も手近かで、最も有効なのは、仕事である。」『幸福論』第2部、「罪と憂い」より(P51 訳;草間平作・大和邦太郎 岩波文庫)。
 憂いに駆られたり、沈みがちになることは、誰にしも覚えがあろう。そんなとき、人は良からぬ遊びに耽ったり、酒を飲んだりして気を紛らすことが多い。良からぬ遊びがなんなのか、それは読んで、ぎくっ、とした人だけが思い浮かべればよい。男性ならだいたい想像できますよね?
 勿論、わたくしも経験がある。前者でなくとも、後者について。深く深く反省する端からパブのカウンターの隅っこに場所を占めて黒ビールを喉へ胃へ流しこんでは深く深く反省し、それをまたぞろ性懲りもなく繰り返す。もはや弁明する気もない。そうした事実がありますよ、というだけの話。
 無念を晴らすために報復するのは却って自分を傷つけるだけだ。悲しみを忘れようと酒に手を伸ばし、享楽に耽り、身を持ち崩すようなことがあってはならない。社会人だろう、会社が与えた自分の役割に責任を持て。あなたの代わりは幾らでもいるが、あなたがそこにいる限りあなたは自分の責務を果たさなくてはならない。
 憂いや悲しみ、邪淫の妄執から健康的に自分を助け、崖っぷちから掬いあげるためにも、仕事に精を出すことだ。
 山口瞳ではないが、礼儀作法とは他人に迷惑を掛けないことであり、自分の健康に気を遣うことだ。そうして、慣習に従い、平凡に、自然に振る舞うことだ。ヒルティも実は同じことを、言葉を換えて、発言している。こうして書いてみて、この2人のモラリストが近しい性質を持ち合わせているのに気附き、畏敬の念にも似た思いを抱いたことを、序に言い添えておく。
 仕事は勇気を与えてくれる、と同じところでヒルティはいう。なによりも、「正しい仕方で、即座に憂いを忘れさせてくれる」と(同 P51)。
 仕事に精を出せ。汗の分だけ憂いは消える。没頭しただけ邪な思いは鎮まる。われらはそれを実務を通して、実際に社会のあらゆるシステムに揉まれて体得した。理不尽と思えるものもあろうけれど、経験によって勝ち得た知恵と知識ぐらい重宝されるものはない。
 ヒルティは罪と憂いに対する手段として、仕事だけを挙げているわけでは、当然、ない。仕事以外の手段として、神への祈願があり、簡素であることの歓びがあり、正しい節約があり、他者への奉仕がある、と、ヒルティは説く。余分なものを求めず、平静に暮らし、朝起きて夜に寝ることを感謝し、健康を尊び、仕事のあることをありがたく思い、健やかなる人生を送ろう。そのためにも、――
 「君の生活において、罪を生じさせてはいけない。君はそうさせない義務があり、そうさせないようにできるのだ。」(同 P18)

 「通常、まず罪をば生活からとり除かねばならぬ。そののちに初めて、憂いを追い払うことも本気に考えられるのである。なぜなら、真に憂いのないただ一つの状態は、人間の生得の素質ではなく、また、なにか幸運な外的境遇の所産でもない。それは苦しんで獲得した、よりよき幸福である。」(同 P66)



 いま、どれだけの人がヒルティを読んでいるのか、わたくしにはわかりません。しかし、アラン『幸福論』(集英社文庫他)と同じぐらい、現代人の心にフィットする内容と訴求力がヒルティの著作にはあります。時代の淘汰を経て生き残ったものには相応の<力>がある。それを証明するものでもあると思います。
 読者諸兄には、少なくとも、『眠られぬ夜のために』と『幸福論』だけでも読んでほしい、とわたくしは希望します。両方とも岩波文庫から出ています。或いは、単行本になりますが、一巻に編集されたものもあります(白水社)。大きな本屋さんや図書館にはあるでしょう。人生の良き糧になると信じます。
 わたくしも今日の更新作業を済ませたら、布団に入って読み直そうと思います。◆

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