第1286日目 〈メタモルフォーゼン〉【小説】 [日々の思い・独り言]

 風間凉子はその晩、過去を炎のなかへ葬った。
 積みあげられた薪の上ではぜる火の粉が、元日の夜の庭の一隅で小さくダンスする。静澤有沙について書かれた記事や写真が、間断なく、躊躇なく、燃やされてゆく。もう一人の自分と訣別することに未練はない。では――頬を流れてゆくこの涙は、いったいなんだろう?
 少し休もうと立ちあがり、星空を打ち仰いでみた。白く濁った息が氷柱のように先細って大気へ消えてゆく。一月の夜の冷気は、コートの下まで遠慮なく潜りこんでくる。両掌を擦りあわせて、口の前で手水の形にして息を吹きかけた。
 かさり、と落ち葉を踏みしめる音が、背後でした。黙ったまま、そちらへ振り向く。落ち葉を踏んだのが夫であるのはわかっていた、くるぶしまである黒衣をまとって現れたのには心底びっくりしたが。偶然であれ、その姿は否応なく去年の夏の事件を想起させる。冗談で済まされる姿ではない。
 手伝おうか? 夫の訊ねに「自分のことだから」と拒み、吐き捨てるように呟いた。「よりによってこれが最後なんてね」と、雑誌の切り抜きを胸の前でひらひらさせながら。
 物いいたげな夫を無視して、切り抜きを火のなかへ放った。火焔のなかでそれがはぜて、狂ったように捩れてどす黒くなり、やがて炭へ変じて形を崩してゆく。その様子をじっと見つめながら、まるで禊ぎね、と独りごちた。夫がこちらへ顔を向けたのを視界の外で感じた。
 春にわが身を襲った病気(ということになっている)と、誤解と中傷に基づく事実を歪めたゴシップ報道で、心を千々に乱れさせた昨年の仲秋。
 そのとき、どれだけ娘たちを怯えさせ、この男性(ひと)を苦しめてしまっただろう。来し方行く末に思い悩んで初冬の海を眺めながら、年の瀬も迫った数日前、風間凉子はようやく決断を下したのである。
 「凉子」火勢おとろえし焚き火の傍らで、夫に抱きしめられた。「お前が何者だろうと、ぼくの妻であり、子供たちの母親であることに変わりはないからね。一緒にいてくれてありがとう。――おかえり」
 自分がいちばん安心して〈時間〉を過ごせる場所で、その言葉の余韻をじっくりと噛みしめた。
 愛するものはすべて浚(さら)いとられる。だが、私はそうじゃない。人生を共に歩いてくれる人がいるのは、幸せなことだ。誰かが隣にいてくれる幸せを、私は知っている。少なくともそれは、作者の後半生に欠けて埋められなかった。
 見あげた夫の瞳のなかに自分が見える。やわらかな微笑を静かに浮かべ、「ただいま」と、凉子はいった。◆

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