第1285日目 〈ユズリハの下で〉【小説】 [日々の思い・独り言]

 妹たちと連れだって初日の出を拝んだ午後、風間梨華は晴れ着を脱ぎ捨て着替え、ブラームスの交響曲の楽譜を携え庭へ出た。二つに割れた松の老樹を見あげ、松ぼっくりを蹴飛ばしながら行き、道端にベンチを見附けると腰を下ろして、総譜のページを開いた。しかし、まったく集中できない。空を仰いで大きな溜め息を吐いた。
 ――そろそろ決めなくちゃな……。
 潮の香りと波のさざめきを孕んだ微風が庭を撫でるように吹いて、梨華の髪を少し揺らした。砂利を踏む音がする。小道を歩いてきて隣に腰をおろした母の甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
「溜め息をつくと幸せが逃げるよ? いつもポジティヴが口癖の梨華ちゃんは、なにをお悩み?」と、なめらかなアルトの声で、母が訊いた。
 「うん……」少しいい迷ってから、「休み明けに進路希望の紙を出さなくちゃいけないの。それでちょっと、ね」
 そうかぁ、と母。「そんな時期なんだねぇ。そうか、悩むよね」
 「これまでは漠然と音大へ進んでクラリネット続けたい、としか思っていなかったけど、去年の夏に紹介されて宮様の別荘でメイドのバイトをしたじゃない? それからね、卒業したら働くのもいいな、って。――それにさ、家は家族も多いし、ここを維持するのにもお金かかるじゃん。及ばずながら私も協力しようかな、なんてね、考えているんだよね」
 あはは、とその場を取り繕うように梨華は笑った。お金のことは気にしなくていいんだよ、という母の声を聞き流しながら。
 「ユズリハはね」と背後へ目をやりながら母が口を開いた。つられて梨華もそちらを見た。「親子草、っていう呼び名の通り、子供の幸せを祈る親の気持ちがこめられた木なの。みんな、梨華から沙織まで、この木の下で、お父さんから名前を授けられたんだよ……。梨華、お父さんもお母さんもあなたが幸せで元気でいてくれればいいの。あなたが選んだ人生を、私たちは応援しているからね」
 梨華はユズリハの木を見あげたまま、「なんでお母さんは女優になろうと思ったの?」と訊ねた。
 「無能無才にして終に此の一筋につながる。by松尾芭蕉、from『幻寿庵記』。お母さんも同じよ。悩んだけれどね。でも――」と、母はちょっと言葉を切った。「でも、そのおかげで、お父さんと逢えたのよ」
 母の両頬がピンク色に染まっている。可愛いけれど……やれやれ、やっぱりだ。その様子を眺めながら、梨華はいった。
 「お母さんに較べたら、まだまだ甘ちゃんだね。家を出てしまえる程に強い自分の夢って持っていないもん。私は、もう少し悩んでみる、自分の人生だもんね。ありがと、お母さん」◆

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