第1401日目 〈「創世記」前夜withやはりあのとき無理にでも……、〉 [創世記]

 続編と新約を併せて収める新共同訳聖書の1/2を、旧約聖書が占めている。5年を費やして39の書物を読み果(おお)せたあと、どうして始めに戻って<前夜>と題するノートを書いているんだろう、と筆を執っていてつくづく疑問でならぬ、いま仕事の上で岐路に立たされて悩んでいる本ブログ管理人のみくらさんさんかです。
 聖書読書ノートとして開設、更新を続けてきた本ブログは今日から(欠落分を補う目的も兼ねて)「創世記」に入ります。「創世記」、「出エジプト記、「レビ記」、「民数記」、「申命記」で構成されるモーセ五書は<律法>と称されてきました。
 聖書物語のいちばん最初に置かれた本書は、神と人間が近しい立ち位置にあった原始の時代から、(良くも悪くも)両者の関係が徐々に離れてゆき独立独歩の思考と感情を持つようになったエジプト奴隷時代までの間に、イスラエル/ユダヤ民族が辿った歴史の道程を伝える書物でもあります。
 また、非キリスト教国、非ユダヤ教国である日本に生まれ育ったわれらにも馴染みある挿話がたくさんある読み物でもあります。たとえば、――
 「光あれ」という神の言葉で幕を開ける<天地創造>や、アダムとエバ(エヴァ、イヴ)の誕生からカインとアベル兄弟の確執、楽園追放に至る顛末を綴った人間の原罪を描いた<エデンの園>のお話、粛正ともリセットとも受け取れる<大洪水とノアの方舟>のお話、人間のあくなき挑戦心が混乱を招くきっかけとなった<バベルの塔>、後の世まで再三に渡って悪徳の象徴として語られる<ソドムとゴモラ>の挿話、そうしてアブラハムとイサク、ヤコブ、ヤコブの子ヨセフを主人公として語られてゆく民族の歴史譚。
 ――そうしたどこかで聞いたり観たりした覚えのある物語、或いは過去に本ブログでも触れてきた出来事が「創世記」のなかにはひしめいております。こうした個々の挿話については当該章に於いて別途、ご紹介してゆきます。
 「創世記」は他の律法の書物と同じくモーセが著したとされ、それを否定する意見はあるにはあるが勢いを持っていない様子であります。モーセ時代の「創世記」と現在われらがこうして読む「創世記」にどれだけの相違があるか、それはわかりません。今日われらが知る状態の「創世記」が成立したのは、おそらくバビロン捕囚期、或いは解放後であろうか、という考えがあることを、自己の備忘も兼ねて申し添えておきます。
 他にも語るべきことがあります。が、まだ<前夜>でもありますので、必要なことは後日に譲ることにしましょう。いまは一旦筆を擱きます。
 それでは明日から「創世記」読書を始めましょう。



 足繁く通ったことのある喫茶店が閉まるのも淋しいことですが、そこに新しい店が開いたのを見るのも同じぐらいに淋しい思いがするものだ。伊勢佐木モールにあった南蛮屋cafeは震災の翌年に閉まり、ラーメン屋を経て先日シルバー・アクセサリーの店が開店した。
 こんな有為転変の遍歴を辿るぐらいなら、あのとき無理にでも南蛮屋cafeで働いていた人を口説き落として、居抜きで買い取り、喫茶店をオープンさせて社長(……ぷっ)にでも納まっておくんだったな。本当に考えていたんだ。開店資金を捻出するだけの貯金もあったし、そこを管理している不動産屋にも相談していたしね。
 でも、その人は首を縦に振らなかった。横浜は自分にとってアウェイなんだ、といって、断固拒み通されたんだよね。その人に現場を任せられない以上、喫茶店を開く意味はない。だから計画は断念した。良かったのかもしれないけれど、店舗の跡が斯くも流転の途を辿るのを見ていたら、やはりあのとき無理にでも……と悔やまれてならないのですね。
 ああ、もう一度あのコーヒーが飲みたいなぁ……。◆

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