第1511日目1/2 〈村上春樹『アフターダーク』を読み始めました;小説家・村上春樹の実験劇場。〉 [日々の思い・独り言]

 今年になってから村上春樹『アフターダーク』(講談社)を読んでいる。読めたり読めなかったりする日があるのはこれまで同様だが、ただいま蝸牛の歩みで第3章。
 この作品は夙にいわれてきたようにその文体――物語を進める<視座>について賛否両論があったように記憶している。描写は三人称でも一人称でもなく、あまり馴染みのない二人称でされる。カメラのようにどこにでも自在に入りこんでゆき、しかし何にも干渉/介入することはできない。斯様な手法を意識して全編で採用した小説であるがために、『アフターダーク』は読者の嗜好を刺激して感想を二分することになったのではないか。
 日本の小説にも二人称を採用したものは勿論、ある。しかし二人称である必要性はあまりなく、なによりも物語を語るに語り切れていない。読者の導き手として機能していないなら、二人称でなくてはならない必要性と説得力を持ち得ぬなら、この人称は両刃の剣である。が、むしろ文体を操るに、言葉を鍛えるに上手な作家の手に掛かれば、たちまち読者に至福の読書の時間を提供することができるだろう。
 では、『アフターダーク』についてお前はどう思うのか、と問われれば、まだわかりません、と答えるより他はない。なにしろまだ1/3も読んでいないのでね。さりながらここまで読んできた時点で所感を申しあげるならば、悪くない、とお答えする。
 というのも、わたくしは『アフターダーク』に於ける二人称語りに不思議な酩酊を味わっているからだ――うーん、この表現は正確じゃあないかもしれないな。高揚感、か? S.キング&P.ストラウブ『ブラック・ハウス』(新潮文庫)でまともにこの人称と遭遇したときのデジャブ?――。
 文章の得手にかかれば二人称で語られる小説は、曰く言い難い魅力と磁力を放つ作品となる。この『アフターダーク』は10代の頃に何度も読み耽ったジェイ・マキナニー『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』(新潮文庫)同様、あざとさと流麗さを備えた殆ど唯一の作品であるように思うのだ。自分に即した物言いをすれば、二人称小説をもしこの先書くことがあればいの一番に手本としたい作品である。
 が、これまで読んできたなかでいちばん村上春樹らしからぬ作品、と戸惑いを覚えるのも事実。これまでなら開巻間もないあたりから、物語はなにか尋常でない気配を漂わせていた。その最右翼はやはり『ねじまき鳥クロニクル』となろうが、『アフターダーク』は語りの手法など小説家のテクニックをぶちまけるのが最優先されて、<小説>本来の役割は(どちらかといえば)二の次、三の次、という印象である。前作『海辺のカフカ』同様、小説家・村上春樹の実験劇場。
 これで物語がスカスカであったり、徒労を抱くが精々の読後感をもたらされるのであれば、早々に読書を切り上げて他へ移りたいところだが、作者は村上春樹である。よもやソンなことはあるまい、と信じている。少なくとも『ダンス・ダンス・ダンス』のような失望と憤怒を覚えることはあるまい、と信じている。なぜって、『アフターダーク』を読み始めたときから――そもその最初に読んだときから(実は再読)、この文体、このスタイル、この語り方(二人称)に曰く言い難い魅力と磁力を感じ続けてきているからである。
 これを読み終えると、村上春樹長編小説読書マラソンのゴールは間もなく。なんだか淋しい。待っていろ、最後のページ、最後の一行、最後の一語。待っていろ、『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』。◆

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