第1530日目 〈むかし好きだった作曲家;フランツ・リスト〉 [日々の思い・独り言]

 一時期リストに凝っていた時期があった。リストとはフランツ・リストのこと。作曲家だ。最近では村上春樹『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』にてラザール・ベルマン弾く《巡礼の年》が紹介されたことで有名に。昨年生誕200年を迎えたリヒャルト・ワーグナーの義父でもある。
 以前も書いたような気がするのだけれど、わたくしは好きになった作曲家の作品は録音あるものならば可能な限りそれを蒐集して聴き倒したい、という抗い難い欲求を内に備えている。そろそろそれも卒業の兆しが見えているのは幸福なのことなのかどうかわからないけれど、とにかくそうした欲望に似た好奇心と歯止めの利かない行動力(浪費ならぬ乱費ともいう)を持っている。
 社会人になってその病気を初めて発症させた作曲家がリストであった。
 リストばかりを専ら聴く日々が続いた。<淫する>という程でないが、それに近い状態だったことは否めない。いまにして思えばなにがそんなに良かったのか、と疑問であるが、定番の〈愛の夢〉や《超絶技巧練習曲集》、そこから進んでシューベルトの歌曲のトランスプリクション、《巡礼の年》全3巻、《詩的にして宗教的な調べ》を聴いた。続けて2つの交響曲、管弦楽曲と協奏曲、室内楽、宗教合唱曲を中心として声楽曲を、そうしてオペラまで。エヴェレット・ヘルム著『リスト』(音楽之友社)を片時も離さず読み耽り。
 そんななかで好きになったピアニストがラザール・ベルマンであり、スヴィヤストラフ・リヒテル。いずれも旧ソ連出身の、鉄の腕を持ったピアニストだが、自分の気質には前者の方が好みに叶い、またそれを発火点としてベルマンのLP/CDを次々と漁ってゆくことになるのだけれど、それはまた別の話にすることができるだろう。いまは語らない。ホルへ・ボレット、アルフレード・ブレンデル、イェノー・ヤンドーもまた格別の味わいがあるが、やはりこれもいまは語らない。
 これを書くにあたって手持ちの、いまは往時の1/10弱程度まで数の減ったCDから幾枚か選んで聴いたが、流石にいまとなってはリストを真面目に聴くのは恥ずかしい。
 ピアノ曲ならしばらく耳を傾けていても障らないが、これが管弦楽となるとそのあざとさ、ハッタリのふんだんに効いた詐欺師ぶりに5分も耐えることはできなかった。これは環境の変化も起因しているか。音楽を聴く環境は現在でこそヘッドフォン主体のものになっているけれど、リストを聴いていた当時はミニコンポで、ちゃんとスピーカーから音楽を流していた。現在の環境でリストを聴いて拷問と思うのは、そんなわけで頗る当然のこといえるかもしれぬ。
 わたくしにとってリストという作曲家は、青い春の残り滓であったのかもしれない。
 今後も聴いてゆくであろうリストの曲はほんの一握りの作品だ。それを大切に聴いていればそれでよいと思うている。上に挙げたピアノ作品から《超絶技巧練習曲集》を除いたものにDFD歌う歌曲のCDがあればそれでじゅうぶんだ。必然的にiPodにもそれだけしか入っていない。
 この作曲家に夢中になっていた頃、些細なきっかけからリスト愛をぶちまけたエッセイを綴ったことがある。どんな原因でか中途で筆を擱いているけれど、いつか機会あればベルマンやリヒテルが弾くリストについての文章と同様、構想を新たに、装いを一変させて(ここいちばん重要!)、本ブログが完結するその日より前にお披露目できたらいいな、と本気で考えている。◆

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