第1610日目 〈村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 最新刊『女のいない男たち』(文藝春秋)を発売日翌日に手に入れたよ、と言うたら、すっかりハルキストですね、と苦笑されました。そんなつもりはないのですがね。が、顧みればこの人の新刊を、あらかじめ刊行日も知った上で発売直後に購入したことは、なかったかもしれません。インタヴュー集と対談本を発売当日に買っていたのは偶然の出来事でしかない。昨年の長編に至っては書店で購入するタイミングを逸して、と或る新古書店にて発売から数カ月後に入手した。そんな意味で今回の短編集は、ちょっと特別な位置を占めるものとなるのです。
 そうそう。短編集といえば『回転木馬のデッド・ヒート』(講談社文庫)を読み終えました。
 本書収録の諸編を読んでいると、特にこれといった起点もなければ明白な終点もない、言うなればスケッチ風のショート・ストーリーであることに気附かされます。「聞き書き」というスタイルに騙されてはいけない。他者が語る他者の人生の一コマであるから、そこに所謂<起承転結>なるものがあろうはずがありません。しかも、『全作品』の解題で著者本人が語るように、本書へ収められた8編は、いずれもそれらしく演出された創作なのだから尚更。
 知らずのめり込んで、いつの間にやら最後のページに到達していた作品がある。どうにも気乗りせず、ページを消化することがなかば義務と化していた作品も、実はある。前者を好きな作品、後者を好きになれなかった作品、とそれぞれ呼んで差し支えないかもしれませんね。
 前者に分類されるのは「今は亡き王女のための」と「雨宿り」、「野球場」の3編。中でも「雨宿り」と「野球場」は、<わたくしが選ぶ村上春樹短編ベスト……>に間違いなく入りますね。近過去に巡りあった女性から似たような話を聞かされていますし、わたくし自身よく似た経験をしたことがありまして、そうした事柄が好みに反映したのかもしれませんね。
 就中「野球場」は鍾愛の一編。男の子が女の子に恋をした。恋といえるかどうかわからないぐらいに微かな感情だったけれど、かれは彼女をもっと見ていたくて、彼女が一人暮らしするアパートの反対側、野球場を挟んだ反対側で暮らし始める。望遠レンズを取り付けたカメラで彼女の部屋を観察する日が続くが、その淡い執心は特にこれというきっかけもないまま、すっかり消えてしまった。かれは野球場のそばの部屋を退去する。が、かつての<観察期>を経たあとで会う彼女の前で、かれは粘っこい感触と嫌な臭いが綯い交ぜになった汗をかく。それはずっとあとまで皮膚感覚として記憶され、この先もう二度とこんな汗はかきたくない、と、かれは語る。
 わたくしもずっと昔、そんな汗をかいたことがあります。「かれ」同様、その汗についてはよく覚えている。いまでも思い出せる。罪ではないけれど、二度と思い出したくない、二度と繰り返したくない類のものでありました。共感と記憶ゆえにこの作品を愛するのは勿論ですが、それ以上に、「かれ」が語る小さな灯とはあたたかくていいものだ、という言葉に安堵を覚えるのです。これはギャツビーにも通じるところがありますね。対岸の緑色の灯火を信じたギャツビーと、飛行機の窓から見下ろす町の小さな灯の暖かさを信じる「かれ」は、きっと同じ魂を持った者同士なのだと思います。
 好きになれなかった作品については口を閉ざすことにしましょう。なにについて語り、なにについて語らなかったか、という点を以てご想像いただければよろしいと思いますゆえ。
 本書に収められる諸編は、その語りのスタイルゆえにヘミングウェイのそれを思い起こさせます。有名な<氷山の理論>ですね。わたくし自身も何度か実作で試みたことがありますが、このスタイルで幾つも小説を書き上げるのは、結構難しいことなのであります。それなのにこの作家は!?
 他の短編集以上に、ここには痛ましさと哀しみがストレートに刻印された作品が収められている。ハルキストが通り過ごすことはあるまいから敢えて促す必要はないけれど、この『回転木馬のデッド・ヒート』は、むしろ村上春樹を好まぬ方にこそ一度手にしてみてほしいな。気に入って他の著作へ手を伸ばしてくれたらば、もっと嬉しい。◆

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